せともののルーツ! 千年余の歴史を持つ愛知県瀬戸市の焼き物 瀬戸焼 陶器 磁器などさまざまなスタイルを持つ瀬戸焼の魅力

焼き物

千年以上の長い歴史の中で、人々の暮らしに寄り添いながら多様な製品を世に送り出してきた瀬戸焼。日本で陶器一般を指す「せともの」という言葉は、長い歴史のなかで、やきものづくりを牽引してきた瀬戸焼からきています。陶器、磁器などさまざまなスタイルを持つ瀬戸焼では陶器の生産を本業焼、磁器の生産を新製焼と区別して読んでいます。伝統美の中に創意工夫をしたモダンな新作も豊富に生み出されています。千年余の歴史を持つ瀬戸焼は、多彩な釉薬(ゆうやく)による装飾が特徴の一つです。焼成時における釉薬の変化は、瀬戸焼それぞれの個性を生み出していきます。

瀬戸焼

 

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瀬戸焼の特徴、歴史

約1,000年前から一度も途切れずやきものの生産を続けてきた、世界的にも稀有な産地。日本で陶器一般を指す「せともの」という言葉は、長い歴史のなかで、やきものづくりを牽引してきた瀬戸焼からきています。瀬戸焼の起源は、5世紀後半に現在の名古屋市・東山丘陵周辺で、須恵器の生産を行っていた猿投窯(さなげよう)。丘陵地帯には瀬戸層群と呼ばれる地層があり、やきものの原料となる良質の木節粘土・蛙目粘土や、ガラスの原料となる珪砂を採取することができました。山間地帯には、松などの樹林が広がっており、瀬戸の恵まれた自然が窯業発展の大きな支えとなってきたのです。12世紀終わりには古瀬戸の生産がはじまり、当時国内唯一の施釉陶器生産地として、四耳壺、瓶子、水注がつくられました。19世紀に入ると磁器の生産もはじまり、アメリカへの輸出や万国博覧会への出品など、海外との交流が盛んに。また、それによって染付けの顔料となる酸化コバルトや石膏型による成形法など西洋の技術が取り入れられました。現在も時代の変化とともに移り変わっていく生活様式に対応して、食器やノベルティ、陶歯、自動車の部品など、多種多様な製品を生み出し続けています。

「せともの」の愛称で人々に親しまれてきた瀬戸焼。陶器、磁器などさまざまなスタイルを持つ瀬戸焼では陶器の生産を本業焼、磁器の生産を新製焼と区別して読んでいます。伝統美の中に創意工夫をしたモダンな新作も豊富に生み出されています。千年余の歴史を持つ瀬戸焼は、多彩な釉薬(ゆうやく)による装飾が特徴の一つです。焼成時における釉薬の変化は、瀬戸焼それぞれの個性を生み出していきます。

日本六古窯は、古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称です。昭和23年頃、古陶磁研究家・小山冨士夫氏により命名され、平成29年「日本遺産」に認定されました。

出典 Six ancient kilns公式サイト

瀬戸焼のはじまり

日本の窯業生産の開始は、古墳時代に朝鮮から伝わった須恵器の生産からといわれています。
瀬戸焼の起源は、5世紀前半から、現在の愛知県名古屋市・東山丘陵周辺で須恵器の生産を行った猿投(さなげ)窯(よう)にあり、瀬戸をはじめ各地へと広がっていきました。
猿投窯では、9世紀前半に日本で初めて植物の灰を釉薬にして、人工的に施釉(せゆう)した灰釉(かいゆう)陶器の生産が始まり、その流れを受けて、10世紀後半に瀬戸窯が産声をあげました。
瀬戸でつくられた当時の灰釉陶器には様々な器種が見られるほか、緑釉陶器の素地も出土しており、その生産への関与もうかがわれます。

山茶碗・古瀬戸の生産

11世紀末になると、東海地方の窯業地では、施釉技法を一時的に放棄し、「山(やま)茶碗(ぢゃわん)」と呼ばれる無釉の碗に代表される在地性の強い近隣地域向けの日常食器を生産していくようになり、鎌倉・室町時代の窯業の基盤を築いていきました。12世紀末頃から、瀬戸窯は施釉技法が復活し、「山茶碗」とともに、四(し)耳(じ)壺(こ)・瓶子(へいし)・水注を中心とした「古瀬戸」と呼ばれる新たな施釉陶器を生産していきます。さらに13世紀末には鉄釉が開発され、瀬戸窯は日本で唯一の施釉陶器の生産地として発展し、「古瀬戸」は全国に流通していきました。15世紀末になると、窯構造が須恵器生産以来の地下式の窖(あな)窯(かま)を改良した半地上式の大窯が登場し、それまで多器種であった「古瀬戸」の生産が、天目(てんもく)茶碗(ちゃわん)・小皿類・擂鉢(すりばち)の三器種を中心とした特定少器種の量産体制へと変化していきました。

瀬戸焼の多様化

主な生産地が瀬戸地域から美濃地域に移る16世紀後半、黄瀬戸、瀬戸黒、志野など、多様なデザインで装飾性の高いやきものが生み出されてきました。その後、初代尾張藩主徳川義直が、美濃地域へ移っていた陶工を、現在の瀬戸市に当たる赤津村や下品野村へ呼び戻したことで、瀬戸地域への窯業が再開し、これが近世瀬戸窯の成立となります。
また、連房式(れんぼうしき)登窯の導入により、量産化がすすめられていくとともに、瀬戸地域の村ごとに生産器種の分業化が図られました。

磁器生産の開始

江戸時代の瀬戸窯は、日用品を量産する一方で、17世紀末には名工たちによる一品物の制作が盛んになります。

18世紀後半になると、肥前(ひぜん)陶器が国内に流通するようになり、瀬戸を取り巻く市場の変化が起こりますが、古法の再現や新技術の開発など様々な努力を行い、新しいやきものづくりに取り組んでいくとともに、磁器開発の研究にも着手していきました。

瀬戸で磁器が焼かれるようになると、磁器を「新製焼」あるいは「染付焼」と称し、陶器を「もともとの仕事(方法・技術)のやきもの」という意味で、「本業焼」と称して呼び分けるようになりました。

19世紀初頭に本格的な磁器生産を開始した瀬戸窯では、より高品質の磁器を生み出すため、後に瀬戸の磁祖となる加藤民吉を九州に技術習得へ向かわせます。そして帰郷した民吉によって伝えられた製造法により、その品質は飛躍的に向上し、瀬戸の磁器生産は急速に進歩・発展していきます。ついに磁器生産は陶器生産を凌ぎ、一品物から煎茶具や食器に至るまで、多種多様な製品が生産され、国内での販路を拡大していきました。

海外への進出・瀬戸窯業の転換

明治時代になり、日本政府は輸出振興のため、欧米で盛んに開催される万国博覧会に積極的に参加しました。瀬戸でつくられた技巧的で豪華絢爛な染付磁器は、万国博覧会での受賞を重ねることで高い評価を得ることとなり、数多く輸出されるきっかけとなりました。

また、万国博覧会への参加により、酸化コバルトや石膏型など、多くの西洋のやきものづくりの技法が瀬戸に伝わり、今まで培ってきた技術と相まって、新しいやきものづくりが行われるようになりました。

職人から陶芸作家へ

明治時代初期の万国博覧会出展を契機に、輸出産業の花形となった日本の美術工芸品は、欧米にジャポニスム旋風を巻き起こしましたが、次第にその潮流は変わっていきます。山水や花鳥文様といった伝統的な意匠に固執していた日本のやきものは、当時の欧米の新しい美術様式に対応することができず、次第に厳しい評価を受けることとなりました。これに危機感を覚えた日本政府は、明治29年(1896)に東京美術学校(東京藝術大学美術学部の前身)に図案科を設置し、工芸分野の図案・意匠の改良に努めることとなります。

その機運は瀬戸にも伝わり、大正3年(1914)に瀬戸における最初の創作者集団である「瀬戸図案研究会」の結成を皮切りに、数々の団体が生まれ、公募展への出展などが積極的に行われるようになります。この流れは、江戸時代以来の職人工芸から脱却と美術としての作品づくりを行う作家の登場という、瀬戸が新たなやきもの文化の発信地となる端緒となりました。

産業化と受け継がれる技

明治時代後半、電気の使用開始や機械導入による本格的な製陶技術の近代化が始まり、やきものの大量生産体制が確立されました。ロクロは手回しから電動式に、窯の燃料は薪から石炭・重油に、絵付は手描きから銅板転写にそれぞれ転換するなどし、それまでの飲食器・装飾だけではなく工業用製品やノベルティ(陶磁器製の人形・置物)の生産が始まるなど、その裾野を広げていきました。第二次世界大戦後、瀬戸のやきものづくりは輸出向け製品を軸に、戦前にも増して急速に発展していきました。その中でも、ノベルティは中心的な存在となりました。また、昭和30年代以降の高度経済成長期には、飲食器をはじめとして、タイル・衛生陶器・碍子・理化学用品などの生産も大幅に伸びていき、あらゆる場面で瀬戸焼が使われるようになりました。

出典 瀬戸焼振興協会公式サイト

Setoyaki Style[フルバージョン]

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