素敵な焼き物の器がほしい!日本の焼き物 おすすめの陶器 磁器の種類 産地 歴史と特徴

目次

日本の素敵な焼き物の器がほしい!

会津本郷焼、益子焼、笠間焼、瀬戸焼、常滑焼、九谷焼、伊賀焼、美濃焼、信楽焼、京焼・清水焼、越前焼、丹波焼、備前焼、萩焼、砥部焼、有田焼、伊万里焼、唐津焼、波佐見焼、薩摩焼、やちむん.. こちらでは、日本全国の焼き物の種類、産地、歴史とその特徴、魅力をご紹介します。毎日使いたいお皿、お茶碗、湯飲み、酒器、マグカップなどの食器や、使って、眺めて楽しみたい有名作家さんによる素敵な花器、茶器などの作品、伝統的なものからモダンなものまで、皆さんもお好みの焼き物、探してみてくださいね!

 

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ikubosan
伊万里・有田焼(佐賀県)

・はじまりは、16世紀末に行われた豊臣秀吉による朝鮮出兵のときに、朝鮮半島から焼き物の職人を多く連れ帰り、その中のひとりである李参平(りさんぺい)が、17世紀の初めに有田町で良質の陶石を発見したことによる

・17世紀の中頃には、名工 酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)という職人が、乳白色の素地に赤・緑・黄などの色の絵の具で彩色した色絵付けに成功した

・藍色と金・赤・緑・黄を基本色に豪華絢爛な装飾を施し、ヨーロッパや国内の富裕層向けにつくられ、多くの人々に受け入れらるよう、ものづくりが行われてきた

・佐賀鍋島藩では、幕府への献上品として鍋島様式(なべしまようしき)が用いられ、明治維新まで一般庶民には無縁だったが、明治時代以降にヨーロッパの技術が取り入られ流ことで近代化がなされた
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乾山焼

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イギーくん
イギーくん

ねえねえラモーンくん、ごはん用に焼き物のお茶碗が欲しいんだけれど、たくさんあって迷っちゃうんだよね。ラモーンくんは焼き物に詳しいって聞いたから、いろいろ教えてくれないかな?

ラモーンくん
ラモーンくん

うん、いいよ!会津本郷焼、益子焼、笠間焼、瀬戸焼、常滑焼、九谷焼、伊賀焼、美濃焼、信楽焼、京焼、清水焼、越前焼、丹波焼、備前焼、萩焼、砥部焼、有田焼、伊万里焼、唐津焼、波佐見焼、薩摩焼、やちむん.. たくさんあるから、まずはそれぞれの歴史や特徴をイギーくんと一緒に調べてみようね!

福島県の焼き物 会津本郷焼

___serpentrhythm___
会津本郷焼 藁灰釉大皿

明治頃に焼かれた会津本郷焼の大皿。藁灰と思しき失透釉を表に施し、裏は広く露胎とする。会津本郷焼は1645年、瀬戸から陶工・水野源左衛門を招いて本格的に製陶を開始し、1800年に東北地方でいち早く磁器焼成に成功した。本作は高台作りや目跡など瀬戸の石皿に似た作行きを持つが、石皿よりも幾分軽く日常使いに最適。貫入や釉縮れが生じた藍灰の膚が味わい深い。

#会津本郷 #会津本郷焼 #石皿 #藁灰釉 #aizuhongoware

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daiju_satou
窯出し。
灰釉の器が沢山焼けました。
今日の焼け最高。自画自賛(´ω`)

#会津本郷焼
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会津本郷焼の歴史と特徴

福島県会津美里町は個性豊かな陶器と磁器を作り続ける東北最古の窯業の里で、地元の土で作られる製品は伝統的な絵柄から現代的なデザインまで多彩です。窯元ごとに代々伝わるスタイルを踏襲して、絵付けにも個々の絵柄や色合いが反映されています。会津本郷焼独特の釉薬「飴釉」を使った、ニシンの山椒漬け用の鰊鉢が有名。

東北最古の焼き物の秘境、会津本郷。 多様な創り手の、一貫した想い。

会津本郷、瀬戸町。昭和の町並みが残るメインストリート、瀬戸町通りから分かれる細い道々に、13の窯元が点在しています。立ち並ぶ民家に溶け込んでいる窯元。訪れる人は、窯であることに気付かずに通り過ぎては笑いながら後戻り。時間と空間を行き来するような、迷路のような会津本郷焼の窯元巡りを楽しんでいます。

会津本郷焼。東北最古で、全盛期は100を超える窯元があった焼き物の産地としては、あまりに知名度が低いかもしれません。会津という肥沃な盆地にあったために、地域内での需要で十分だったことと、自らの作品を売り込むことを避ける会津人気質が、会津本郷を焼き物の秘境とならしめたのでしょう。

そんな知る人ぞ知る会津本郷焼の面白さは、13の窯元それぞれの個性の豊かさ。陶器と磁器が同時に作られること自体、産地としては珍しいものですが、さらに、本郷焼と総称してよいものか迷ってしまうくらい、作風も、方向性も、考え方も多種多様なのです。しかし今、それぞれの窯元が、会津本郷焼という稀有な産地を残すべく、ともに手を取り合っています。

東北最古の窯場といわれる会津本郷焼の発祥は、1593年。会津若松城主・蒲生氏郷がお城の改修のために播磨国(兵庫県)から瓦工を招き、瓦を焼かせたのが始まりといわれています。はるか400年以上も前、安土桃山時代のことでした。
実際に本郷の地でやきものが焼かれ始めたのは、1645年。会津藩主・保科正之が招いた美濃国瀬戸出身の陶工・水野源左衛門が本郷村に原土を発見し、本格的に陶器製造を始めました。これが会津本郷焼の、陶器の起源です。
一方、磁器は、1800年までその登場を待ちます。本郷村で発見された大久保陶石で磁器を作ろうとした藩は、佐藤伊兵衛を有田に潜入させます。命がけで技術を習得した伊兵衛の帰国後、藩は備前式登窯を築きました。
会津藩は本郷に奉行所を置き、藩の産業として力を入れておりましたが、奉行所の廃止により職人たちに残土、工具が分け与えられ、職人たちはそれぞれの窯を築き、焼き物を作り始めました。それが窯元の始まりです。

会津本郷焼には、瓦焼の流れをくむ土物(陶器)と、大久保陶石を原料とした石物(磁器)があります。石を原料とした焼き物の産地としては、関東以北唯一です。会津本郷焼の全盛期には、大小合わせて100以上の窯元がありました。本郷の上り窯から煙が立ち上らぬ日はなかったといわれています。急須、土瓶、目皿、花器が有名ですが、特に急須については、明治末期に本郷の陶工が茶こしの部分を発明し、急須の出がよいことで日本一の折紙付になりました。
毎年9月16日、会津本郷では陶祖祭を行い、陶祖・水野源左衛門、磁祖・佐藤伊兵衛の2人をしのびます。命がけで守り継がれた本郷の陶器と磁器。陶祖祭にもその価値がうかがわれます。

出典 会津本郷焼事業協同組合公式サイト

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栃木県の焼き物 益子焼

 

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daisukeinou
益子で手に入れたちょっと古めの益子焼の器、波のような山のような緑釉が美しい、実用にも適した八寸皿

正直今まであまり益子焼には興味は持っていなかったけど、現地を訪れ歴史や背景を知ると見え方が変わりました、暖かくなったらまた行ってみたい
#スリフトファインズ #thriftfinds
#うつわ #器 #pottery
#民藝 #民芸 #mingei #folkart #japanesefolkart
#益子焼 #mashikoyaki #mashikopottery

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つかもと|益子焼つかもと(tsukamoto)(@mashiko.tsukamoto)がシェアした投稿

mashiko.tsukamoto
ペルシャ紋皿

能登のスズキを直送して貰ったので、オリーブ油を塗りオープンで焼いてみました。

Persian crest plate

I had sea bass from Noto peninsula shipped directly to our house. I coated it with olive oil and grilled it in the oven.

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益子焼の歴史と特徴

民芸陶器の産地として有名になった益子町、華麗さや派手さはありませんが、渋い絵柄や色使いが最大の魅力。人間国宝、濱田庄司から受け継がれてきた、のびやかでぬくもりのある土肌の作品が現代にも息づいています。東京からも近いことから多くの観光客が訪れる益子町、モダンで素敵な作品が次々と生み出されています。

益子焼は江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まると言われます。以来、優れた陶土を産出すること、大市場東京に近いことから、鉢、水がめ、土瓶など日用の道具の産地として発展をとげます。

現在、窯元は約250、陶器店は50。若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家も多く、その作風は多種多様です。春と秋には陶器市が開かれます。

用の美
1924年、濱田庄司がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らと共に 民芸運動を推めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は 「芸術品」としての側面も、もつようになります。

出典  益子町観光協会公式サイト

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茨城県の焼き物 笠間焼

 

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grampt.studio
#kasamayaki #kasamaware

Kasama-yaki is a pottery produced around Kasama City, Ibaraki Prefecture.

It began to be made from Anei (1770s) in the middle of the Edo period.

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#芸術 #伝統工芸 #笠間焼 #笠間焼き #art #artgallery #traditional #handmade #pottery #ceramics #clay #teacup #teabowl #teaceremony #greentea #madeinjapan

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kasama_mon

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笠間焼の歴史と特徴

「特徴がないのが特徴」

一般的にこのように言われている笠間焼、江戸、東京に近いということで益子と並ぶ大きな窯業産地となった茨城県笠間市、必要に迫られて日用雑器を大量生産する機会を得て、様々な用途に対応する陶器を生産するようになったため、笠間焼の特徴を表現するにあたって、「特徴がないのが特徴」と呼ばれるようになりましたが、現在では若手からベテランまで多くの作家さんが集まって現代的で芸術的な陶器も製作されています。

笠間焼の歴史は江戸時代中期、安永年間(1772~1781年)から始まります。箱田村(現在の笠間市箱田)の久野半右衛門が、信楽の陶工・長右衛門の指導で焼き物を始め、窯を築いたとされています。後に、笠間藩の仕法窯として保護され、甕・摺り鉢などの日用雑器が作られた。幕末から明治時代にかけては江戸に近い利点から、大量生産をし技術者や従事者も飛躍的に多く増加しました。明治時代には特に厨房用粗陶品の産地として知られていました。しかし、終戦後、プラスティック製品などの流入などにより、人々の生活様式も大きく変化し、笠間焼の需要は減り、窯元は今まで経験したことのない危機に陥りました。
そのような中、県立窯業指導所や窯業団地、笠間焼協同組合などが設立され、官民一体となり試行錯誤の末、厨房用粗陶品から工芸陶器への転換を図りました。平成4年に伝統的工芸品に指定され、近年では、古い歴史に育まれてきた伝統に新たな技法が加わり、「笠間火器」を開発し、土鍋や陶板など新たな商品を生み出しています。現在では、約300人の陶芸家や窯元がいる窯業産地となっています。

出典 笠間市公式サイト

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愛知県の焼き物 瀬戸焼

akinaorr
💙💙💙
食卓をARTのように彩る器が、平日自宅でリモートワーク中にサクッと食べるテキトーな料理さえも美しく見せてくれる!
@om_official_mo

お友達の @momokoogihara が想いを込めてリリースにした器のブランド。なんとも言えない青が本当に美しくて、食べ終わった後までも見惚れてしまう。
ももちゃん、おめでとうー!!

どれも表情が違って、可愛すぎて迷ってるんだけど、次は茶碗かどんぶり狙ってる🫶ギフトにも喜ばれると思うから、近々ギフト機会がある方はぜひ♡(私も欲しいw)

#OM #器のある暮らし #器好き #瀬戸焼
#lifestyle #zushilife #逗子葉山 #akinaorrstyle
#逗子ライフ #逗子暮らし
#kinsengift

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TOCA by lifart…(@toca_lifart)がシェアした投稿

toca_lifart
インストゥルメンタルのセラミックシリーズにホワイトのフラワーベースが仲間入りしてます!
1970年代に愛知県瀬戸市にてドイツやフランスなど北欧を中心に輸出用として作られていたものを復刻。
ムラのあるアンティークホワイトの釉薬で洗練された印象です。
個人的には寒色の植物と合わせてさっぱりかっこよく飾りたいな〜なんて思います。
ラウンド・スクエアの2タイプで、同シリーズのフラワーベースと比べると一回り大きなサイズ。
さり気なくお部屋を彩ってくれること間違いなしです!

#tocabylifart #インストゥルメンタル #瀬戸焼 #花瓶 #フラワーベース #陶器 #matsumotocity #松本市 #雑貨屋 #雑貨

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瀬戸焼の歴史と特徴

瀬戸窯業の始まり

土をこね、形を作り、火をたいて焼き上げる「やきもの」の歴史は、古く縄文時代から始まります。しかし、やきものの生産が、ある高い技術をもった工人達の手で、専門的に行われるといった窯業生産の開始は、古墳時代に朝鮮から伝わった須恵器(すえき)の生産からと言われています。東海地方では、5世紀後半にまず、猿投窯(さなげよう)において始まり、そこから各地へと広がっていきました。

そして、9世紀前半になると猿投窯で、それまでの須恵器に代わり植物の灰を釉薬(ゆうやく)にした灰釉(かいゆう)陶器が新しく焼かれるようになりました。これは当時「瓷器」(しき)と呼ばれていたと考えられ、京や有力寺院を中心に供給されていたことがわかっています。

こうして東海地方の窯業が成長していくなか、瀬戸においては、今のところ須恵器を焼いた窯は発見されていませんが、遅くとも11世紀初頭に位置付けられる灰釉陶器を焼いた窯が、瀬戸市南部の幡山(はたやま)地区に分布していることから、その頃になってようやく窯業が開始されたことがわかります。

鎌倉時代
瓷器から山茶碗・古瀬戸へ

日宋貿易が開始され、青磁(せいじ)・白磁(はくじ)などの優れた陶磁器類が大量に輸入されると、当時の上層階級である貴族・寺院などは、中国陶磁を唐物(からもの)として珍重し、要求するようになりました。
このような、消費者である貴族らの需要の変化により、平安時代末になると、東海地方の瓷器の生産者達は、近隣の在地領主や名主達の日常雑器としての、無釉の碗・皿・鉢を主体とする「山茶碗」生産へと転換するようになりました。(写真右)
瀬戸窯においても例外なく山茶碗の生産が行われ、これらの山茶碗を専用に焼いた窯が、瀬戸市内の古窯全体の約半数を占めていることから、生産量も多かったと考えられます。そして、その生産は室町時代中期頃まで存続しました。

瀬戸窯では、鎌倉時代の初期から室町時代中頃に至る約300年ほど、山茶碗の生産の他に「古瀬戸」の生産が行われていました。
古瀬戸は、他の中世の窯業地が無釉の日用雑器類の生産に留まっていたなか、瀬戸窯のみで生産された施釉(せゆう)陶器(釉薬を器面全体に施したやきもの)の総称です。

なお、山茶碗・古瀬戸を焼成していた窯は、いずれも「窖窯」(あながま)と呼ばれているものです。

室町、安土・桃山時代
大窯の時代

室町時代になると、従来までの窖窯に代わり、新しく「大窯」が登場します。

窯の分布も、集落の近くに移ってきました。瀬戸で大窯が盛行した時代は、室町時代後期から安土・桃山時代に至る約130年ほどです。室町時代後期には、明代の中国陶磁を模倣したと言われている天目茶碗や、碗・皿類、擂鉢(すりばち)などの高級日用生活用具が生産されました。

安土・桃山時代になると、わび茶の完成、茶の湯の流行も相まって、天目茶碗、水指、建水などの茶陶関係のものが生産されました。そしてこれらの器種の多くは、全国をはじめ、畿内を中心とした上層階級や町衆らの新興階層の需要に応じて生産されたものと思われます。しかし、その頃の主要生産地は、瀬戸よりも美濃(岐阜)のほうが隆盛を極めていました。例えば美濃での、瀬戸黒、黄瀬戸、志野などの多様な釉薬の使用からもその隆盛さの一端を伺うことができます。

江戸時代
磁器生産の開始

江戸時代の瀬戸窯業は、慶長15年(1610)に初代尾張藩主徳川義直が東濃地方に離散していた瀬戸の陶工達を呼び戻し、彼らを藩のご用窯として保護したり、諸役の対象から外すなどの保護を加えたことにより、再び活性化していきました。そして、今までの大窯に代わって、大量生産には合理的であった「連房式登窯」(れんぼうしきのぼりがま)の採用が一層、活性化に拍車をかけることになりました。

ところが、江戸時代初期に九州の肥前で磁器の生産が始まり、その生産が発展し、製品が全国に進出するようになると、瀬戸の陶器の販路は日に日に狭められていきました。

江戸時代後期になると、九州肥前の磁器に対抗するため、瀬戸においてもようやく磁器を焼造しようとする気運が高まり始めました。そして、享和年間(1801~04)に瀬戸村で染付磁器が開発されると、磁器生産は村々へと急速に広まっていったと言われています。このように瀬戸で磁器が焼かれるようになると、磁器を「新製焼」あるいは「染付焼」と称し、陶器を「もともとの仕事(方法・技術)のやきもの」という意味で、「本業焼」(ほんぎょうやき)と称して呼び分けるようになりました。

しかし、瀬戸の磁器は、まだまだ肥前のそれにおよぶものではありませんでしたが、文化元年(1804)、後に瀬戸の磁祖とあがめられるようになった加藤民吉(たみきち)は、磁器の製法技術を見に付けるために九州へ旅立ちました。民吉が帰村すると、以後、新しく「丸窯」(まるがま)が導入されたり、生産の分業制が確立され、瀬戸の磁器生産技術は飛躍的に向上していきました。
また、その頃瀬戸窯では、一家一人の制により二男以下が陶業を営むことはできませんでしたが、磁器生産については二男以下でも自由に開業できるようになったことや、本業焼から新製焼(しんせいやき)への転業者も多くなったことから、まもなく磁器生産は陶器生産をしのぐ勢いになりました。

明治時代
瀬戸窯業の転換

明治維新は、政治に、経済に、激しい変革をもたらしました。明治政府は「富国強兵・殖産興業」のスローガンのもと、西欧諸国に対抗しようとしました。こうした背景の中、明治政府は陶磁器産業の振興に乗り出し、まず、明治6年(1873)にウィーンで開催された万国博覧会への参加が試みられました。
その後もフィラデルフィア万国博覧会、パリ万国博覧会にも瀬戸から積極的な出品がなされ高い評価を得ると、海外からの注文が多くなり、世界に瀬戸の名が広まりました。明治16年(1883)には、輸出依存が70%にも達していたことからもその様子が伺えます。

このような状況のなか、明治35年(1902)に江戸時代以来の連房式登窯に代わり、どこにでも築窯が可能で、燃料のコストも安くすむといった「石炭窯」が開発され、大量生産が可能になりました。以後、大正時代の後半には、ほとんどの窯が石炭窯へと移行していきました。さらに、動力ロクロ・石膏型鋳込法(せっこうがたいこみほう)・絵付の銅版転写法の導入が行われ、瀬戸窯業の「近代」化(機械化)が確立されたのでした。しかし、このような機械化による大量生産は、粗悪製品を乱造する原因にもなりました。
その一方で、新たな技術、製品の研究開発が積極的に行われ、新しいやきものも生産されていくようになります。こうして瀬戸窯業の産業化が進んでいったことにより、やきものの芸術性を高めるという陶芸分野も成立していきました。

このような状況のなか、明治35年(1902)に江戸時代以来の連房式登窯に代わり、どこにでも築窯が可能で、燃料のコストも安くすむといった「石炭窯」が開発され、大量生産が可能になりました。以後、大正時代の後半には、ほとんどの窯が石炭窯へと移行していきました。さらに、動力ロクロ・石膏型鋳込法(せっこうがたいこみほう)・絵付の銅版転写法の導入が行われ、瀬戸窯業の「近代」化(機械化)が確立されたのでした。しかし、このような機械化による大量生産は、粗悪製品を乱造する原因にもなりました。 その一方で、新たな技術、製品の研究開発が積極的に行われ、新しいやきものも生産されていくようになります。こうして瀬戸窯業の産業化が進んでいったことにより、やきものの芸術性を高めるという陶芸分野も成立していきました。

大正、昭和時代
戦争と瀬戸窯業

大正3年(1914)に第一次世界大戦が始まり、これまで活発に陶磁器の生産を続けていたドイツ、イギリス、フランスが戦争に巻き込まれ生産がストップすると、その代わりとしての日本製陶磁器の需要は大いに高まりました。そのなかでも、当時欧米の子供達に親しまれていたドイツ製の精巧なノベルティ(陶磁器製の置物、装飾品など)に代わって、瀬戸産のノベルティの台頭が注目されます。

昭和4年(1929)の世界大恐慌、そして日中戦争、第二次世界大戦と続く戦争の時代へと突入し、陶磁器産業は軍需優先による影響を真っ先に受け、物資・燃料の欠乏を招きました。それでも瀬戸では伝統的技術の保存を行いながら、燃料の石炭の代わりに亜炭(皮木)を使って、生活用陶磁器や当時不足していた金属製品の代用品の生産へと移行することによりこの時代を乗り越えていきました。

戦後の瀬戸窯業は戦災をほとんど受けなかったことや、戦後の物資不足による生活用具の需要が高かったことなどにより、急速に復興しました。また、輸出が再開されると、ディナーセットや電磁器、ノベルティなどが盛んに輸出されるようになりました。 特にノベルティは、日本のノベルティ輸出額の大部分を占め、瀬戸陶磁器の代名詞となるまでになりました。大正期にドイツノベルティの模倣に始まった瀬戸産のノベルティは、この時、”セト・ノベルティ″として独自のものとなったのでした。

このようにして、戦後の厳しい状況をのりこえた瀬戸は、日本自体の高度成長を機に、一層躍進していきました。

出典 瀬戸焼振興協会公式サイト

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愛知県の焼き物 常滑焼

 

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常滑市指定無形文化財保持者の鯉江廣さんの窯変櫛目急須です。
グラデーションのかかったボディと櫛目が美しい一品です。

#急須 #ティーポット #煎茶 #煎茶道 #茶器 #緑茶 #日本茶 #玉露 #中国茶 #陶器 #常滑焼 #鯉江廣

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鯉江廣さんの研ぎ出し黒丸急須です。
彫や絵などを施すよりも無地の方が難しいと急須作家さんたちは皆さんおっしゃいますが、このようにシンプルにみえて難易度は実は高いです。
摘み、蓋の受け口の上部、持ち手の先は表面の黒を研いで下にある朱泥を少し見せることで黒がより引き立っています。

#急須 #ティーポット #煎茶 #煎茶道 #茶器 #緑茶 #日本茶 #中国茶 #鯉江廣 #常滑焼

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常滑焼の歴史と特徴

常滑焼は、愛知県常滑市を中心として、古くから作られている焼き物の名前です。縄文時代、弥生時代から奈良時代(紀元前4世紀~8世紀)には、日本のあちらこちらで沢山の土器が作られていました。5世紀頃に、中国から朝鮮を経て「窯」の技術が伝えられ、これによって穴窯が築かれ、須恵器が焼かれるようになりました。そして、以前に比べて高い温度で焼くことができるようになり、今までの土器よりも非常に硬く焼き締まった須恵器(灰釉陶器)が焼けるようになりました。

平安時代末期(12世紀)には、常滑を中心にして知多半島の丘陵地のほぼ全部の地域に穴窯が築かれ、山茶碗や山皿・壺などが作られました(知多古窯趾群)。この時代(中世)に作られた焼き物は、一般に「古常滑」と呼ばれています。当時、焼物を作っていたところは、一般に「日本六古窯」(瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前・越前)と呼ばれていますが、他にも渥美(愛知県)、珠洲(石川県)などでも焼き物が焼かれていました。

中世常滑窯は、その中でも最も大きい生産地でした。作られた焼き物も皿・茶碗・片口鉢・三筋壷・経塚壺・大甕など沢山あり、特に大型のものを特長としていました。その後、室町時代に入ると「窯」は常滑地区に集まってきて、生産品も大型のものがほとんどを占めました。それらの大型の甕・壺は船(海運)で遠く東北地方を始め、関東・関西・中国から九州にまで運ばれました。窯も地下式の穴窯から半地上式の大窯に改良され、製品は褐色の自然釉の真焼け、赤物と呼ばれた素焼きの甕を始めとする日用雑器が多くなりました。

江戸時代に入ると真焼けの陶芸品も加わりました。江戸時代の終わりには、連房式登窯が現れ製品も真焼けや素焼きの土管・甕・朱泥製品(茶器・酒器・火鉢など)が加わりました。

明治時代になって、それまでの山の斜面に築かれていた窯が平地に築かれるようになり(平地窯)欧米の技術もはいってきて機械化も始まり、窯も更に改良されて倒炎式角窯が使われるようになりました。陶器にも釉薬を掛けたものが多くなり、食塩焼き(食塩釉)も出現し、土管・焼酎瓶・建築陶器(煉瓦・タイル)衛生陶器も作られるようになり、燃料も薪に代わって、石炭が使われるようになりました。そして製品の種類も生産量も一層増加して、近代産業に仲間入りしました。技術は急速に進歩し、機械による大量生産も始まりました。

以後、大正・昭和・平成と移り変わって技術も大幅に進歩し、窯、製品の種類・質、生産額も飛躍的に伸びて現在のようになりました。

オレンジ色の土肌を持つ朱泥の急須に代表される常滑焼は釉薬をかけない渋い焼き締めが魅力です。使い込めば込むほど光沢を放ち、一段と味わいも深くなっていきます。現代では色々な釉薬を使った皿や食器なども製作されています。

日本六古窯は、古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称です。昭和23年頃、古陶磁研究家・小山冨士夫氏により命名され、平成29年「日本遺産」に認定されました。

出展 常滑市民俗資料館公式サイト

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石川県の焼き物 九谷焼

 

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yoca_muta
赤絵白象謳花図 茶碗
Tea-bowl of white elephant with flowers

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tomomi.takeda.works
夏だけじゃなくてもいいとは思うんだが、何故だか夏にしか素麺食べないよね

お中元の文化も、大分無くなって、素麺が届く事も無くなったけれど、やっぱり夏になると、食べたくなって買ってしまう

ごま胡桃味噌ダレを買ったもんだから、試したくて仕方ない欲で、早速に、素麺いただきました😍

素麺といえば、やっぱり王道の揖保乃糸が好きだなぁ

タレも美味しかったよー😍冷汁みたいにして飲み干した笑

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九谷焼の歴史と特徴

九谷焼は、明暦元年(1655)に、加賀藩の命により、有田で陶技を学んだ後藤才治郎が、江沼郡九谷村で開窯したのが始まりです。
しかし、わずか100年たらずで廃窯。原因はいまだ定かではありませんが、この間に焼かれたものを、現在「古九谷」と呼んでいます。
廃窯後100年は、日本の陶器といえば伊万里焼でした。ところが、江戸後期に、瀬戸で磁器産業が成功したことをきっかけに、加賀でも、春日山焼や若杉焼が作られ始めました。
さらに、その若杉焼が成功したことで、かつて古九谷を生み出した大聖寺藩でも、古九谷再興の動きが強まりました。その中心人物が、大聖寺の豪商、吉田屋伝右衛門だったのです。文政六年(1823)、九谷村の古九谷窯跡の横に登窯を築き、翌年、九谷焼を焼き始めました。
明治時代に入ってからは、九谷庄三(くたに・しょうざ)の彩色金襴手が有名となり、大量の九谷焼が海外へ輸出されました。そのきっかけとなったのが明治6年(1873)のウィーン万博です。「ジャパンクタニ」として九谷焼の名が一気に広まりました。

作品は豪快かつ色調渋く独特の魅力があり、柿右衛門、色鍋島、仁清と並んで、日本の色絵陶磁の代表的なものとなっています。
現在では宮内庁より贈答品として使用され、また英国チャールズ皇太子御成婚祝としても献上され、外国の著名な方々にも広く愛用されるとともに、今では日本の美として大変親しまれています。
また、人間国宝 三代德田八十吉をはじめとして、吉田美統、仲田錦玉などが、モダンで優美な色彩の九谷焼を生み出し、その伝統を発展させています。
九谷焼は、日用品から美術品まで幅広く種類があり、初めての方も慣れ親しまれた方も、その独特な美しさに、心癒されるひとときをお過ごしになられることでしょう。

九谷焼は、陶器も磁器も両方あります。上絵付けを九谷でしたものを「九谷焼」としています。

九谷焼は、日本を代表する色絵陶磁器です。その特徴であり、最大の魅力は「上絵付け」です。
「上絵付けを語らずして九谷はない」と言われるほど、色絵装飾の素晴らしさは、豪放華麗です。

上絵付けとは、本焼きした陶磁器の釉薬(ゆうやく)の上に、顔料で紋様を描き、再度焼く技法のことで、九谷焼や有田焼などに広くその技法が用いられています。
九谷焼の上絵付けの特徴は『赤、黄、緑、紫、紺青』の、五彩手(通称九谷五彩)という、みごとな色彩効果と優美な絵模様に表れています。その他、『緑、黄、紫、紺青』を使用した青手古九谷の塗埋手など、色彩のハーモニーが魅力です。

出典 九谷満月公式サイト

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三重県の焼き物 伊賀焼

#伊賀焼窯元 長谷園 #長谷園

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伊賀焼の歴史と特徴

古く桃山時代から茶人たちの間で親しまれてきた伊賀焼。茶壷や茶碗などは、1400度の高温で何度も焼き締めた力感溢れる焼き肌が特徴です。現在は火にかける日用雑器作りが盛んで、中でも陶土の特質を生かした土鍋類が人気です。

国指定の伝統工芸品伊賀焼は中世の時代に伊賀市の槙山に近い五位ノ木窯跡などで周辺の豊富な陶土と薪の燃料を利用し信楽焼と同じ擂鉢や甕、壺などが焼かれました。
その後、茶の湯が盛んとなった17世紀初めの桃山時代には、伊賀国領主であった筒井定次や藤堂高虎、高次の時代にお庭焼として武将茶人の古田織部などの指導で槙山の西光寺窯や丸柱の堂谷窯で豪放で力強く破格な美意識を持った茶陶の水指や花入が焼かれました。
この時代の伊賀焼は、一般に古伊賀と言われ器壁には、ヘラ工具を使用した波状の文様や格子状の押し型文様の他、ゆがみ、緑色のビードロ、灰かぶりや焦げ、鉄釉を垂らすといった意匠が見られ作為性の強い作品となっています。

日本陶磁の最高峰とまで言われ、以前、作家の川端康成はノーベル賞受賞の記念講演「美しい日本の私」のなかでわび、さびといった日本文化を代表する焼き物として古伊賀を採りあげ絶賛しました。この時代の花入や水指6点が国の重要文化財の指定を受け、また、美術館や博物館に収蔵されている作品も数多くあります。
しかし、桃山時代が終焉をむかえると伊賀焼も焼かれなくなります。その後、18世紀中頃の江戸時代に藤堂藩の支援もあって、日常雑器の碗や皿、鍋、など日常雑器を中心に丸柱で再び焼かれ始め、弥助、定八といった陶工が活躍し現在の伊賀焼の基礎ができました。今は、土鍋や食器を中心に茶陶も焼かれ、古伊賀に劣らない新しい伊賀焼を目指し作陶に励む陶芸家の姿も見られます。

遥か400万年前、古琵琶湖の時代に花崗岩が風化し湖底に堆積してできた亜炭等を含む陶土と
その周辺に広がる赤松などの燃料となる緑の森が土と炎の芸術、伊賀焼を育んできました。
そして、古伊賀の個性的な意匠や破調の美を生み、
また、伊賀の土鍋等に見られる強い耐火性につながっています。

ヘラ目・格子状の押し型・耳・ゆがみ

古伊賀の水指や花入には、ヘラ工具を使用した「山道手」と呼ばれる波状の文様や格子状の押し型文様が装飾的に施され、一対の「耳」が付けられ、また、整った形に手を加え歪ませた破調の美が見られるなど一つ一つが個性的な作品となっています。
ビードロ・灰かぶり・焦げ・山割れ

古伊賀の器肌は高温で焼かれることによって、降りかかった薪の灰が緑色のガラス質となり、また、灰かぶりや黒い焦げ、山割れを生じる。何れも自然の窯変の結果に見えるが、実は、最初からそうなることを想定して焼かれているのです。
焼き締めの肌合い

赤く燃え盛る色を映した火色の小石まじりの肌合い、水気を帯びた伊賀焼の器に料理を盛り、酒を注げば緑色のビ-ドロが映え、味までも引き立てます。

出典 伊賀焼振興協同組合公式サイト

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岐阜県の焼き物 美濃焼

 

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tokyobazaar
Let me introduce my another favourite tea pot from Saliu series. Indigo coloured ceramic is beautifully matched with the wooden handle and it carries both modern and traditional features.

Now available on our online store and at our Artarmon shop.
Our next open day is 13th August😊
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hajime_kimura_gengen
古美濃平向付

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美濃焼の歴史と特徴

約1400年前の飛鳥時代、須恵器と呼ばれる土器が焼かれたことが、この岐阜県東濃地方のやきもの文化の始まりだといわれている。安土桃山時代、わずか30年程の間に、唐物から和物へと改革された茶の湯の世界の流行とともに、芸術性を高めた美濃焼が登場する。自由な造形、大胆かつ繊細な絵付け、豊かな色彩など、個性あふれる作風の美濃焼は「美濃桃山陶」と呼ばれ、美意識の頂点まで上りつめたといわれており、茶人好みの数々の名陶が創り出された。中でも「黄瀬戸」、「瀬戸黒」、「志野」、「織部」と呼ばれるやきものは時代を越えて愛され、今なお美濃焼の基礎となっている。

しかし、作品の美しさや味を追求したものが作陶の主であった美濃焼は、明治から昭和にかけて衰退の危機に追い込まれる。伝統を守るだけでなく、生きるために新しい道を模索しなければならなくなった陶工たちは、日常雑器を焼くことを選び、その頃から普段使いしやすい磁器の技術に注目が集まった。さらに低コストを実現させるため、分業制度を導入。土岐津町・泉町の煎茶碗や湯呑、妻木町のコーヒー碗皿、駄知町のどんぶり、下石町の徳利、肥田の皿などがそれで、今も各地域に根付いている職工技術の細分化がこの頃に始まった。また、摺絵(すりえ)や銅版、スクリーンプリントなどの加飾技法も開発されたことにより、やきもの生産量日本一の道を歩むきっかけとなった。

やがて鉄道の発達により、美濃焼の卸売業者は精力的に見本を持って全国各地へと飛び回り、大量かつ、迅速に輸送することが可能になる。需要に対応するべく、やきものならどんな種類のものでも焼いてしまう、陶磁器産地のトップにまで成長。そんな「陶器のまち」と呼ばれるその一方で佐賀県の有田焼、石川県の九谷焼、栃木県の益子焼などのように、シンボリックな造形が表立つことはなかった。これは陶器・磁器の区別なく、「織部」や「黄瀬戸」をはじめ「染付」、「青磁」など、多彩な作品が生み出されているが故。高い技術力により、様々な種類のやきものが生産され、それらは日本全国、人々の暮らしに自然と寄り添うまでになった。

そして、この地では今、新たな挑戦が続いている。伝統の技を現代風にアレンジしたうつわや、古の技を深く追求したうつわなど、作陶を続ける陶工たちと窯の数だけ、その可能性は無限。今後、どんな新しい名のやきものが創り出され、また、歴史はどう変化していくのか― 。美濃焼の新たな挑戦が、はじまっている。

黄瀬戸

薄めの生地に灰釉を薄く掛け、焼成することによって黄色に発色してできる。薄作りで釉薬の焼け具合がしっかりとしていて、菊や桜の印花、菖蒲や梅の綿彫り文様を施したものと、やや肉厚で文様を付けていない光沢のあるものの2つに大別される。

瀬戸黒

天正年間(1573~92)に主に焼かれたため、天正黒、引き出し黒とも呼ばれる。本来は釉薬の溶け具合を見る色見本のための茶碗だった。器に鉄釉を掛け、1200度前後の高い温度で焼成。金属製の火箸で窯から引き出し、急速に冷やすことで生まれる漆黒が特徴。

志野

長石釉を厚く掛けて、高温の大窯で焼成した白いうつわ。ゆず肌のような小さな穴や自然に生まれる緋色が特徴。土と釉薬だけで焼き上げる無地志野、鉄絵具で絵付けをした絵志野、酸化鉄で化粧をして長石釉を掛けた鼠志野など幅広い。

織部

主に銅緑釉のやきものを指すが、鉄釉の長石釉も使用される。種類は豊富で、見る人を驚かせる意匠が特徴。瓢(ひょう)げた造形は織部の生み出した様式。一部に銅緑釉を掛けて残りの部分に鉄絵具で文様を書き、白釉を施した青織部をはじめ、黒釉を掛けた織部黒などがある。

出典 土岐市美濃焼PR委員会公式サイト

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滋賀県の焼き物 信楽焼

 

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golf_k_f
晩御飯

暑すぎて、ギンギンに冷えたスダチうどんにしました。さっぱりと美味しい❣️

だし巻きと、サラダ、気持ちほどのネギトロ丼。

よく冷えたビール🍺と共に美味しくいただきました〜。

だし巻き卵も久しぶり❗️

まぁ、よく食べます😅

健康な証という事で…笑笑

#藤原純 #信楽焼 #藤原ブルー #家飲み #ビール #スダチ #すだちうどん #だし巻き卵 #晩御飯の記録 #お家ご飯 #うつわ #うつわ好き #うつわのある暮らし #ダイエットは明日から#ワーキングママ

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happygraaamn
🍒

伝わりますか?このぽってり感
すべてが一目惚れでした✨
運が良ければひび割れる音が聞けるらしいです🎶

#信楽焼
#滋賀県
#巌陶房
#iwaotoubou
#さくらんぼ
#器好きな人と繋がりたい

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yuji_murakami5199
信楽焼のタヌキを買ってしまった。ほとんど一目惚れ。可愛すぎてやられた。#信楽焼 #タヌキ #かわいい

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信楽焼の歴史と特徴

ユーモアあふれるタヌキの焼き物で有名な信楽焼。日本六古窯のひとつとして、その歴史に名を刻んできました。国の伝統的工芸品に指定されていますが、日用品、民芸品、高級茶器まで豊富な品物がそろっています。野趣あふれる風合いの器が魅力です。

日本六古窯とは

日本六古窯は、古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称です。昭和23年頃、古陶磁研究家・小山冨士夫氏により命名され、平成29年「日本遺産」に認定されました。

現在では、「狸の置物」の産地として広く親しまれている信楽焼は、奈良時代以来の古窯と伝えられています。中世から近世にかけての記録には、信楽焼が茶道具として用いられたことが記されています。侘び茶の祖といわれる村田珠光は、弟子に宛てた手紙の中で、信楽焼の茶道具を「侘び」に通じる道具であると伝えています。

初期の信楽焼は素地土(きじつち)が硬めで、長石粒が溶けた乳白色の斑が見られます。これらを古信楽と言います。この頃の信楽焼は施釉のない焼締陶器ですが、焼成時における窯変で淡黄色、緑色、暗褐色などの自然釉がかかり、土味を増した作品として知られています。  後には灰釉が施釉されるようになりました。さらに、光沢性の乳白釉をかけ、焼成時の焦げや土の赤味と混じった独特の風合いを持つ作品が作られました。  信楽焼の土質は、鉄分が少なく総じて淡い色合いを見せます。一方、鉄成分が多く黒褐色を呈する黒信楽と呼ばれる素地土(きじつち)もあります。

出典 セラミックス協会公式サイト

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京都府の焼き物 京焼・清水焼

 

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ittou_kyoyaki
歳時を和菓子と共に🌈

茅の輪くぐりの代わりに、可愛らしい茅の輪の上生菓子を。そして蛍。水無月もやはり外せない。

<染付祥瑞豆皿>
<染付麻の葉七宝紋汲み出し>
<夏瓢箪銘々皿>

#豆皿 #銘々皿 #祥瑞 #染付 #ittou #平安一陶 #清水焼 #京焼 #陶磁器 #器 #やきもの #pottery #伝統工芸 #京都 #Kyoto #茅の輪 #初蛍 #本家玉壽軒 #水無月 #中村軒 #上生菓子 #京菓子 #和菓子 #お茶の時間 #季節のお菓子 #夏越の大祓 #歳時

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【季節の茶道具】

中国が原産の鉄線が日本に伝わったのは室町時代以降とされ、実は歴史が長いわけではありません。
しかし、初夏の茶花として定着しています。

六弁の立派なお花と、力強いしっかりとした蔓による独特の雰囲気が特徴一つです。
なお、鉄線という名前も鉄の針金のように固い蔓に由来しているといわれています。

蔓性の植物はその強い生命力のイメージから吉祥文様として喜ばれ、着物の柄や家紋にも描かれています。
また、その固い蔓から「強固な結びつき」「切れないご縁」などといった願いが込めれられている場合もあります。

#淡交社#茶道#茶道具#裏千家#淡交会#淡交#なごみ#着物#京都#歳時記#インスタ茶道部#季節の茶道具#茶道好きな人と繋がりたい#日本文化#薄茶#京焼#鉄線

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京焼・清水焼の歴史と特徴

京焼は清水焼のこと。古より受け継がれる伝統工芸品です。

清水焼(きよみずやき)は、京都を代表する伝統工芸品のひとつで、もともと清水寺に向かう清水坂界隈の窯元で焼かれていた焼き物を指してそう言っていたのが始まりです。
現在では、京都市東山区・山科区の清水焼団地・宇治市の炭山などで生産されているものをまとめて「清水焼」と呼んでいます。経済産業大臣指定の伝統工芸品としての正式名称は「京焼・清水焼」です。

京焼と清水焼の違いは、これは以前(江戸時代ぐらい)は清水焼以外にも、粟田口焼・八坂焼・音羽焼・御菩薩池焼などが京都市内各地にあり、それを総称して「京焼」という言葉が使われていました。
しかしその後、時代の流れとともに清水焼だけが残って、現在ではほぼ「京焼=清水焼」という形になっています。

京都は古い昔より日本の中心地として全国の焼き物が流入する巨大な市場でした。桃山時代に入ると茶の湯の流行とともに京都市内でも楽焼や様々な茶道具、うつわを作るようになり、茶人や宮家・公家、各地の大名や寺へ献上されるようになりました。そして江戸時代には野々村仁清や尾形乾山、奥田頴川、青木木米といった数々の名工が現れ、京焼・清水焼の地位を不動のものとして今日まで至っています。また、その技術、デザインは京都だけにとどまらず、九谷など日本各地に広がっていきました。

京都には現在でも300軒以上の窯元があります。 しかし、業界自体は他の有名産地と比べると、とってもこじんまりしてます。それは 窯元も商社も零細企業(おじいちゃん、おばあちゃんや親子など家族だけでやっているところもたくさんあります)の集まりだからです。また、 清水焼はその工程のほとんどを手作りで作っているため、生産できる絶対数が少なく、物量が限られています。 京焼・清水焼が皆さんの目にとまる機会が少ないのも、仕方がないのかもしれません。

清水焼には、土っぽい焼〆の陶器から、染付や色鮮やかな磁器のものまで清水焼の手法は幅が広く、正直言って一口にこれが特徴と言い難いところがあります。 と言うのも、京焼・清水焼は手法そのものより、それを作る陶工達によって支えられてきたものだからです。
そういう意味では、京料理と似ているかもしれません。昔から原料が少ない(採れない)京都の地にあって、各地から入ってくる上質の材料をいかに加工するか、職人の技にかかっています。お公家さんやお茶人さんからの注文を受けて制作する多品種少量の受注生産体制をとっている為、陶工の数だけ種類があるといった感じです。

出典 清雅堂陶苑公式サイト

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福井県の焼き物 越前焼

 

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kanaoto2
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実生窯/新藤聡子さんの粉引徳利
@mishougama
二重口ライクな削りが一味
いつも徳利を選ぶときは、丸っこいものを選びがちですが
この徳利は細身で
すっと伸びたキンポウゲの絵付けにぴったりです

#越前焼#実生窯#酒器#徳利#器のある暮らし

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yuko_5050
紫陽花の咲く頃に出してくる器🌿

陶房遥さんの涼しげな越前焼💙

この青い器に花を飾るのが、近年続けている暑気払い🌿

小さな紫陽花を小さな器で楽しんでます✨

水を見ていたら、小浜の水まんじゅうが食べたくなってる福井人な私です😋

#植物のある暮らし #ハイドランジア #紫陽花 #越前焼 #陶房遥 #夏の器 #器好き

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越前焼の歴史と特徴

赤褐色の土肌が渋みと温もりを感じさせる越前焼。約800年の歴史を誇る日本六古窯の一つ。粗い焼き締めの肌にかかる自然釉の素朴さに心が和みます。最近は新越前焼と呼ばれる日用食器をはじめ、モダンな器が生み出されています。

越前焼は、今から約850年前の平安時代末期から始まりました。
その頃は、主に水がめ(水や穀物用)や、すり鉢といった日用雑器を中心に生産しておりました。
そして、越前海岸に近い立地から商品は北前船によって北は北海道から南は島根県まで広まり、北陸最大の窯業産地として発展しました。
しかし、水道の普及や磁器製品の広まりによって需要が落ち込み、越前焼は一時期衰退してしまいました。
その後、地元の研究者 水野九右衛門氏と、日本の陶磁器研究者 小山冨士夫氏によって発掘調査と研究が進められ、復興を遂げることになりました。
また、昭和23年には小山冨士夫氏によって越前焼が「日本六古窯」の一つに数えられ、全国に知られる焼き物となりました。
越前焼の名称は、昭和40年5月の県窯業開発振興協議会において、県内で生産される各窯元の焼き物の名称を越前焼に統一することが決定されました。(福井県窯業誌より)
その後、昭和46年には越前陶芸村が建設され、昭和61年には国から伝統工芸品として指定を受けました。
また、平成29年4月には日本六古窯として日本遺産認定を受け、県外だけでなく海外に向けても発信を続けています。

越前焼は、福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町(旧宮崎村、織田町)に粘りのある鉄分の多い陶土があったことによって生まれました。その足跡は、地名である丹生郡の「丹」(赤土という意味を持つ)からもうかがうことができます。
昔は、良質な土を見つけるとそこに窯元の集団が集まり、そこで焼き物を製作し、その場で窯を作り焼成していました。そして土がなくなるとその集団はまた良質な土を求めて移動しており、現在その窯跡はこの陶芸村近辺を中心に200基以上発見されています。
現在も当組合ではこの陶土にこだわり、越前町内で採取した土を、当組合の坏土工場で精製したものを窯元に供給して商品を作っています。また、越前の土は鉄分を多く含むため、焼き上がりが渋くなるのがその証で、温かみのある土味が最大の魅力です。

日本六古窯とは

日本六古窯は、古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称です。昭和23年頃、古陶磁研究家・小山冨士夫氏により命名され、平成29年「日本遺産」に認定されました。

出典 越前焼工業協同組合

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兵庫県の焼き物 丹波焼

anatomica_tokyo_aoyama
【NEW TANBAYAKI FOR AOAYAMA】
丹波焼は、瀬戸、常滑(とこなめ)、信楽(しがらき)、備前、越前とともに日本六古窯の一つに数えられ、その発祥は平安末期から鎌倉時代はじめと言われております。

桃山時代までは「穴窯」、慶長16年(1611)ごろ朝鮮式半地上の「登り窯」を導入し、蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)という伝統技術も今日に受け継いでいます。

現在の丹波焼は、江戸時代当時の体制により、茶器類で多くの名器を生み、直作(なおさく)、一房(いちふさ)、花遊(かゆう)、一此(いちこの)等の名工が腕を競っていたという背景があってこそです。

その後昭和初めに、柳宗悦により滋味深く素朴な日用雑貨として見出されて広く知られる事となりました。

その丹波焼の中で、丹文窯は代々続いている窯元です。現在、60軒以上ある丹波焼の窯元で立杭の中でもかなり歴史のある窯元。

今回のアナトミカ別注は、4代目の大西雅文氏を中心に作陶、一見丹波焼きとは誰も思わないくらい独創的な器ですが、大阪芸大出身で色々個展を開かれる新しい世代です。

最初青山店がオープンしたタイミングで真っ青のお皿が、そして新しい青山店になったタイミングで黄色いお皿、今年でなんと3回目の真っ赤なお皿をお届けとなりました。

お持ちの方も新しくという方も、コレクトされている方も、さまざまな場面で使っていただきたいお皿です。

『朱を愛でるお皿』、是非ご覧くださいませ。

‪ ◎CONTACT
070 1640 8911‬
‪aoyama@anatomica.jp‬
‪・‬
◎Tanbayaki for New Aoyama

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OPEN : Daily from 13:00 to 19:00(TEMPORARY)
CLOSE : Tuesday
3-14-26 Minami-Aoyama, Minato-ku, Tokyo
CALL US : 070-1640-8911
WRITE US : aoyama@anatomica.jp ‪

#anatomica
#アナトミカ
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#anatomica_nagoya#anatomica_kobe#anatomica_aoyama_silver_space#35summers

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tanseigama
お肉料理と白丹波。
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器やお皿を仕入れに来られる料理人の方は
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盛り付ける料理がイメージできてるんですね😊
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もちろんお肉以外にもお魚料理にも◎
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丹波焼の歴史と特徴

800年の歴史をもつ丹波焼は、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前と共に日本六古窯の一つに数えられ、その発祥は平安時代末期から鎌倉時代の初めといわれています。

丹波立杭焼の名称は国の伝統工芸品に指名されたおりに付けられました。焼き締めの壺や皿、茶器が人気です。灘をはじめ酒造りの本場に近いため、徳利も盛んに作られています。

桃山時代までは「穴窯」が使用されていましたが、慶長16年 (1611)頃、朝鮮式半地上の「登り窯」が導入され、同時期に取り入れられた蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)と共に、伝統技術を今日に受け継いでいます。

当初は、壺や甕(かめ)・ すり鉢などが主製品でしたが、江戸時代前期小堀遠州らの指導により、茶入・水指・茶碗など茶器類に多くの名器を生み、後期には篠山藩の保護育成により、直 作(なおさく)、一房(いちふさ)、花遊(かゆう)、一此(いちこの)などの名工が腕を競って、丹波焼の名を高めました。
明治、大正、昭和と受け継がれた丹波焼は、太平洋戦争後の苦境を乗り越え、食器・花器などの民芸品を中心とした作品づくりに精進しています。
穴窯時代の焼き物は、紐(ひも)づくりロクロ仕上げで、人工的な釉薬(ゆうやく)は使われず、穴窯の中で長時間焼かれることにより、燃えた薪の灰が焼成中 に器に降りかかって、原土の中に含まれた鉄分と融け合い、緑色や鳶(とび)色を自然発色しました。これが自然釉(ビードロ釉)といわれるもので、穴窯時代・丹波焼の特徴となっています。

出典 丹波篠山市公式観光サイト

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岡山県の焼き物 備前焼

mm_hitoshi
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yasue.matsushima
《ラズベリーマフィン》

甘酸っぱいラズベリージャムを
マフィンの中にも入れて

あとになって上のクリームを
ヨーグルトクリームに
すればよかったと
思いついた
次はそれで作ってみよう

#陶器#備前焼#松島健治
#手作りおやつ#焼菓子
#ケーキ#マフィン#ラズベリー

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備前焼の歴史と特徴

備前焼は、古墳時代の須恵器(すえき)の製法が次第に変化したもので、平安時代に熊山のふもとで生活用器の碗・皿・盤や瓦など南大窯跡が生産されたのがその始まりといわれています。
鎌倉時代には、主に壷・甕・擂鉢が多く作られましたが、この頃から次第に現在の備前焼特有の赤褐色の焼肌のものが焼かれ始めました。
室町時代の終わり頃から、「ひよせ」と呼ばれる伊部の地から採取した粘土が使用されるようになり、成形にもロクロが用いられ量産ができるようになり、また半地下式の大形の穴窯が作られたのです。
その後江戸時代になると藩の保護・統制もあり小規模の窯が統合され、南・北・西に本格的大規模な共同窯(大窯)が築かれ、窯元六姓(木村・森・頓宮・寺見・大饗・金重)による製造体制が整いました。
一方製品も、室町時代以降作られた茶陶器や日常雑器の他に置物なども作られるようになります。
これらの大窯による生産は以後江戸時代末期まで続くのですが、この頃京都・有田・瀬戸などで磁器の生産が盛んに行われるようになり、備前焼は次第に圧迫されるようになりました。
明治から昭和初期に至る時期は苦しい時代でしたが、そのような時にも窯の火は絶えることなく様々な努力は続けられました。
この衰退した備前焼を現在の繁栄に導くきっかけを作ったのは金重陶陽でした。金重陶陽は昭和31年に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定され、これをきっかけに多くの人々が努力を重ね低迷期を脱しました。
またこの頃から国内だけでなく、 海外でも純日本的な備前焼の人気が高まり、陶陽の死後も、藤原啓、山本陶秀、藤原雄、伊勢﨑淳と人間国宝を輩出していくようになりました。
現在では伝統的な作風に加え、個性豊かな作品に至るまで作家や陶工によって一点一点作られ続けています。

岡山県の南東部に位置する備前市は、瀬戸内海に面した温暖な気候を有し、岡山県三大河川のひとつである吉井川と、山口から畿内へ至る山陽道が交差する、物流の点でも優れた地域。この土地で生まれた備前焼は、平安時代末に熊山の麓で碗や皿、瓦などを生産しはじめたことが起源とされています。また、備前市の西部、流紋岩でできた不老山、医王山、榧原山に挟まれる伊部地区で、山々から流出した山土の一部が堆積した「干寄(ひよせ)」と呼ばれる良質な土が産出されることも、やきものが生まれた背景のひとつでしょう。初期の備前焼は熊山連邦の山中で焼かれていましたが、備前焼の人気にともない窯の大型化や運搬の利便性をとって里へ降り築窯。安土桃山時代には、備前焼の陶工たちによって指導されたとみられるやきものが、加賀、豊岡、丹波篠山、舞鶴、柳井でつくられており、その後に備前焼のかたちを模した製品が出回るようになります。このことから、当時すでに備前焼としてのブランドが確立されていたことがわかります。また江戸時代に入ると、岡山藩主・池田光政によって燃料や材料が下げ渡され、名工が「御細工人」に任じられるなど、藩の中でも備前焼の発展に力を入れていました。1831年、備前ではじめての連房式登り窯が開窯され、その後も改築を繰り返しながら1940-1941年頃まで使用されていたと言われています。

絵付けや施釉をせず、土の質や成分が焼成した際の景色に良く表れていることが特徴。焼成時、1,200度以上の高温で約2週間かけて焼締めるため、ほかのやきものと比べても強度が高く、また表面に微細な凹凸や気泡があり、酒がまろやかで美味しくなるなどと言われてきました。使われる陶土は、備前市伊部地区から取れる貴重な土「干寄」。粘り気が強く、鉄分を多く含み、耐火性が低いなどの特徴があり、瀬戸内市長船の黒土と混ぜて使用されます。現在も、昔ながらの登窯と松割木の燃料を用い、1点ずつ成形していくため、焼き味の景色は1点1点異なり、胡麻、棧切り、緋襷、牡丹餅などの変化に富んでいます。

この松の灰が焼き肌に降りかかることで独特の表情を作ります。これは窯変の技と呼ばれるもので、備前焼ならではの重厚感と深い味わいを醸し出します。

備前市は、市域総面積の2/3が山地です。また、その地質は流紋岩や石英斑岩などで構成されています。流紋岩は、花崗岩地域に比べて樹木が再生しやすく、燃料になるアカマツ林が広く発達するという特徴があります。また、この流紋岩から生成される山土(粘土)や平野部に堆積した田土が備前焼の原料となり、独特の味わいを器表に描き出します。この豊かな山林資源と原料の粘土が、中世以降連綿と備前焼を支えてきたと言えるのではないでしょうか。

完成した大型のやきものを多量に運び出すためには、立地が恵まれていることも条件のひとつになります。備前焼の場合、中世の前半は、岡山県の三大河川のひとつ吉井川を利用して搬出。中世後半から近世には、片上湾から瀬戸内海へ出るルートを使って運び出していました。江戸時代を代表する窯「伊部南大窯跡」は片上湾からわずか1.5㎞のところにあり、眼前には不老川が流れる好立地にあります。消費地に届けるために必要な交通手段に恵まれたことも、長らく続いている理由です。

備前焼には、世の中のニーズに合わせてやきものをつくってきたという歴史があります。例えば、中世後半の大甕やすり鉢。それぞれ堅牢な容器として液体を貯蔵する、擂鉢が粉食をするのに適するなど、用具として抜群の機能性を持っていました。また近世以降では、宮獅子、布袋・恵比須などの置物、近代以降は金重陶陽によって復興された桃山陶などは調度品として活躍。さらにバブル期は威信財(持つことに価値を見出す)として愛されています。しかし、常に隆盛ではなく、時代によって浮沈はありました。

日本六古窯は、古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称です。昭和23年頃、古陶磁研究家・小山冨士夫氏により命名され、平成29年「日本遺産」に認定されました。

出典  協同組合岡山県備前焼陶友会公式サイト Six ancient kilns公式サイト

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山口県の焼き物 萩焼

hagi_yaki
松雲山さんにお邪魔しました。
展示室には伝統的な萩焼が並べられていて、落ち着いた雰囲気と厳格な印象が伝わってきました。

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teradabijyutsu
坂倉正紘さんのお茶碗で一服。
茶碗の雰囲気にお菓子を合わせて、楽しいおやつです。

歪みの入ったフォルムの面白さや、釉がふわっふわっと雪のように魅せてくれる表情豊かな茶碗。

二碗目は流れる釉が力強く、とてもバランスの良いお茶碗です。

どちらの茶碗も、萩焼の伝統土ではない坂倉さんご自身で見つけてきて掘っている祠赤土を用いて焼かれています。また萩焼のメインとなる大道土を粉引の化粧土に用いてます。

伝統を踏まえながらも、新しいことへのチャレンジ精神溢れるお二人です。

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萩焼の歴史と特徴

茶陶(茶の湯で使うための陶器)として有名な萩焼は、江戸時代に周防・長門の二国を領有する毛利氏の御用窯として発展した陶器で、その歴史は今から400年以上前の文禄元年(1592)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に遡ります。

安土桃山時代、織田信長や豊臣秀吉は千利休を保護して茶の湯を独占的に支配しました。
茶の湯がステータスシンボルとして大きく発展したことから茶器の需要も高まり、これにより珍重されたのが高麗茶碗です。
秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」の際には「技芸ある陶工」の招致が指令され、出陣した西国大名たちは多くの朝鮮の陶工を日本に連れ帰ります。
このとき招致された陶工によって有田焼など西日本各地の陶磁器が創始されたことから、この戦は“やきもの戦争”とも呼ばれています。
後に萩藩の開祖となる毛利輝元もまた、秀吉から茶の湯に親しむことを許され千利休や古田織部とも交遊があった大名で、文禄慶長の役の際に朝鮮の陶工李勺光を、のちに弟の李敬も招きました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ領土を削られた輝元は、安芸の広島から長州の萩へ移ることになります。
輝元にお預けの身となっていた李兄弟もこれに従って萩へ移り、萩の松本村に藩の御用窯を開いたのが萩焼の始まりです。

土による特性

萩焼はざっくりとした焼き締まりの少ない陶土を用いた、独特の柔らかな風合いが特徴です。
土が粗いため浸透性・保水性・保温性が高く、土と釉薬(うわぐすり)の収縮率の違いによりできる表面の細かなヒビ(=貫入)から水分が浸透し、器の中から表面にまで至ります。
この浸透により、使い込むほどに器の色合いがだんだんと変化し、なんとも言えない侘びた味わいを醸すようになります。
この変化は「萩の七化け」と呼ばれ、萩焼の特徴的な魅力となっています。

萩焼は土の風合いを生かした素朴な作風のものが多く、絵付けなどの装飾はほとんど行われません。
土の配合、釉薬の掛け具合、ヘラ目、刷毛目などに、焼成の際の炎による偶然の効果などが加わり、独特の味が生み出されるのです。
そのため色彩も大道土の色を生かした肌色から枇杷色、見島土の色を生かした褐色や灰青色、藁灰釉による白色など、比較的限られた色が主流です。
最近では釉薬や焼成技術の進歩、またデザインの多様性が求められることなどから、茶道具をはじめ日常食器や小物まで様々な色やデザインのものが作られるようになっています。

出典 萩焼会館公式サイト

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愛媛県の焼き物 砥部焼

 

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Sink into the inky depths with our new line of Tobe-yaki ceramic drinkware from studio J. Kobo, a collection bound by ties of indigo and craftsmanship of impeccable quality. See them all now at the link in bio.

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砥部焼の歴史と特徴

遡れば奈良・平安時代、砥石「伊予砥」から生まれた砥部焼の全てとは

砥部の盆地では、山裾の傾斜が窯の立地に適し、燃料となる豊富な木材がたやすく手に入ったため、古くより焼き物が焼かれていました。県立運動公園へ入る道の南北に残る大下田古墳(おおげたこふん)からは6−7世紀の須恵器の窯跡が、いくつも発見されています。

発見された須恵器の中でも「子持高杯」は7個の小さな蓋付杯が器台に載っており、当時の焼き物製造の技術の高さがうかがえます。子持高杯は、昭和43年に国指定文化財に指定され、国立歴史民族博物館に収蔵されています。

奈良・平安時代から、砥部・外山の砥石山から切り出される砥石は、「伊予砥」と呼ばれ、中央にもその名は知られていました。東大寺の「正倉院文書」には、観世菩薩像造立の料に、「伊予の砥」を用いたことが記されています。また、平安時代編纂の「延嘉式」にも伊予国産物として、「外山産砥石」を随用するとの記録が残されています。

江戸時代、砥部は大洲藩に属しており、伊予砥の生産も盛んに行われていました。一方砥石の切出しの際に出る砥石屑の処理は大変な重労働でした。その作業には御替地(伊予市)の村人が動員されていましたが、その負担があまりに大きかったため、村人たちはその動員の免除を大洲藩に願い出ました(砥石屑捨夫事件)。

その頃、伊予砥の販売を一手に引き受けていた大阪の砥石問屋・和泉屋治兵衛は、天草の砥石が磁器の原料となることを知り、大洲藩に、伊予砥の屑石を使って磁器を生産することを進言しました。

これまで悩みの種で捨てていた砥石屑を原料にして焼き物ができる−この情報は当時の大洲藩にとって非常にありがたいものだったと言えます。

和泉屋からの進言を受け入れ、大洲藩の加藤泰候は、安永4年(1775年)に家臣加藤三郎兵衛に「磁器」生産の創業を命じました。

加藤三郎兵衛は、豪農の門田金治に資金を出させ、現場の監督者に組頭の杉野丈助を選びました。

そして、肥前の長与窯から5人の陶工を呼び寄せ、五本松の上原に、登り窯を築きました。

成功までの道のりは決して楽なものではありませんでした。

何回かの試焼を行い、本焼を行いましたが、地肌に大きなひびが入ってしまいます。何度繰り返しても同じでした。肥前の陶工たちは愛想を尽かして、故郷に帰ってしまいました。残された丈助は一人本焼を続けましたが、最後には、赤松の薪もなくなり、半狂乱になった丈助は、家の柱や畳まで窯にくべたといいます。 その様子を見ていたのが、筑前の陶工信吉でした。信吉は、失敗の原因は釉薬原料の不良にあることを丈助に教えました。丈助は早速筑前に出かけ、新しい釉薬を探し求めました。

そして、2年半後の安永6年(1776年)についに白磁器の焼成に成功したのです。

絶え間なく続く技術革新
世界に飛べ、砥部焼

白磁器焼成の成功の後も、絶え間なく技術が改良されてゆきます。

釉薬はこれまで筑前から取り寄せていましたが、杉野丈助は三秋(伊予市)で釉薬の原料石を発見しました。これまでのように、釉薬を遠方から取り寄せる必要がなくなり安定した釉薬の供給ができるようになりました。

また、文政元年(1818年)、五本松の向井源治は「川登陶石」を発見しました。これまでのやや灰色がかった磁器から、より白い磁器を作ることが可能になり、砥部焼の7割が海外に輸出されるようになり、販売が増えました。

また、亀屋倉蔵は、大洲藩の命により肥前で錦絵の技法を学びました。

このように、様々な点での砥部焼の技術革新が進められました。

明治以降、砥部焼は中国等の外国に「伊予ボール」の名で輸出されるようになりました。

そして、向井和平が製作した「淡黄磁」が、明治26年にシカゴ博覧会で1等賞を受賞。砥部焼の名は世界に知られるようになり、大正に入ると、砥部焼の輸出比率が7割を超えるようになりました。

大正末期から昭和の初めの不況により、砥部焼の生産や販売は落ち込みました。一方で瀬戸や美濃といった先進地域では、石炭を使った倒焔式の窯や機械ロクロや石膏型、また絵付けでの毛筆から銅板印刷へと新しい技術が導入されていました。砥部はこのような近代化の波から、一見取り残されたかに見えました。

しかし戦後になり、砥部焼が持つ手作りの良さが改めて評価されることになります。

昭和28年、民芸運動の推進者柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司らが砥部を訪れ、機械化されている他の産地に比べ、手仕事の技術が残っていることを高く評価しました。

また、昭和31年には陶芸家の富本憲吉(文化勲章受賞)も訪れ、砥部焼の近代的デザインを後押しします。

それに刺激され、若手陶工を中心に手作りの良さを生かすべく、ロクロや絵付け等の技法向上に取り組みます。研究会を作ったり展示会を開いたりして、腕を磨きました。

砥部焼は昭和51年に、陶器の世界では全国6番目に、「伝統的工芸品産地」として指定されました。伝統的な砥部焼の技法は、今も受け継がれていますが、最近では、女性や若手陶工の手による伝統的な技法にこだわらないモダンで新鮮な作品も多くなっています。

砥部焼の魅力としては何よりも手作りで使い勝手が良いこと、また値段が手ごろで厚手に仕上げられた堅牢性が日常使用に適していることがあげられます。

これからも砥部という地から、手作りの良さを受け継ぎ、窯元の個性を生かした、使う人のニーズに合った焼き物が次々と送り出されてゆくことでしょう。

出典 砥部焼陶芸館公式サイト

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佐賀県の焼き物 有田焼

miyaemon.jp
#Plate – Tenkei Akae – Banreki Shishi
Sehyou kiln

▼Sehyo-kiln
Established in 1924
The most important thing for Sehyo-kiln is harmony with nature.
The grayish porcelain surface has black spots and a rough texture that can be seen in places. This is due to the fact that the clay is fired without refining, leaving the iron and sand in the clay. Sehyo-kiln’s characteristic is to make use of natural materials to create products with a natural texture.

天啓赤絵は、明代末期の天啓年間に製作された赤絵磁器で日本でも茶人に愛好され、日本の赤絵に大きな影響を与えた器です。

▼Tenkei-Akae (Red painted porcelain) was produced during the Tenkei period in the late Ming dynasty. This porcelain was loved by tea masters in Japan and had a great influence on the Japanese style. Sehyo-Kiln produces with the hope of passing on its charms to the modern age. Since there are only a few kilns producing the Akae porcelain today, this is a rare and valuable piece of porcelain.

#miyaemon #宮右衛門 #toronto #arita #aritayaki #aritaware #aritaporcelain #aritaceramics #japan #porcelain #ceramics #dishes #tablesetting #tabledecor #有田焼 #有田 #Japan #japanesefood #craftsmanship #kaiseki #omakase #michelin #sushi

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ryssaquo
#arita #aritasera #有田 #aritaporcelain #有田焼 #porcelain #aritayaki

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haruko_angelo
西富さんの木瓜皿。
やはり形がきれいです。

#有田焼 #器好き #うつわ好きと繋がりたい#器好き#和の器#曽我部治子#いちご
#aritayaki#陶瓷#瓷器#aritajapan#otonano_yakimono#tableware#ceramic #ceramica#porcelain#porcellina

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有田焼の歴史と特徴

16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮出兵を命じた際、派兵された鍋島氏は、朝鮮人陶工:金ケ江三兵衛(いわゆる李参平)らを連れて帰りました。のちに金ヶ江三兵衛は、17世紀初頭、有田に移住し、泉山で磁器の原料となる陶石を発見したと考えられています。日本で初めて磁器が焼かれた産地として、それから400年間、食器や美術工芸品を中心としたものづくりを続けています。

佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器が有田焼、日本の磁器発祥の地が有田です。それまでは日本の焼き物は陶器のみで磁器は輸入物に限られていました。有田が磁器産地になることが出来たのはその土地環境にありました。有田は山に囲まれた盆地で火山があったため、火山性の流紋岩が長年の温泉効果で白色の陶石に替わり、変質流紋岩火砕岩と呼ばれる磁器用土にピッタリな岩になり、この岩を盆地に流れ込む小川に水車を応用して細かく砕き、さらに山の斜面を利用して登り窯が作れたのです。

透明感あふれる白い器肌に施された色鮮やかで優美な紋様が有田焼の特徴です。また、繊細な筆使いも魅力的。伝統的技法を継承する有田磁器は海外にもファンが多く、非常に高い評価を得ています。

出典 有田観光協会公式サイト

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佐賀県の焼き物 伊万里焼

mcraftsmanship_japan
Nabeshima ware: the finest Imari ware.
Outside of Japan, “Nabeshima ware” made in the Imari region is often called “Imari ware.” However, even among the various types of Imari ware, Nabeshima ware occupies a special place because during the Edo Period, it was made specifically as gifts presented only to shoguns and feudal lords. For this reason, only genuinely talented craftsmen were chosen to create Nabeshima ware, using undisclosed techniques in secret kilns. Embodying such traditions and techniques that have been carried on to this day, Nabeshima ware is said to be the most exquisite kind of porcelain in Japan, with an elegance and refinement fit for nobility.

#imari #saga #nabeshima #imariyaki #bridge #japanhistory #japanculture #japantraditional #japantravelphoto #craftsman #potteryart

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utsuwayaurano
伊万里焼 徳永製陶所のうつわをご紹介します。

透明感のある青い花がとても綺麗な楕円皿です。

中心部には釉薬がたまり深いブルーになっています。

18cm×13cmの適度なサイズ感で少し深みもあるので色々とお使い頂けると思います。

爽やかな色合いでこれからの季節にもぴったりです。

#伊万里焼 #徳永製陶所 #うつわ #花 #磁器 #おうちごはん #おうちじかん #楕円皿 #食器 #imariyaki #utsuwa #porcelain #tableware

出典 Instagram

伊万里焼の歴史と特徴

日本で磁器が本格的に焼かれるようになったのは、今から約400年前の豊臣秀吉の朝鮮出兵後の有田(現在の佐賀県有田町)が最初だといわれています。
豊臣秀吉の命令により朝鮮半島に出兵していた鍋島直茂は、多くの陶工をつれて帰りました。陶工たちは有田の泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、窯を築いて磁器を焼いたとされています。
さらに、有田周辺で焼かれた磁器は伊万里津(津とは港の意味です)に運ばれ、現在の伊万里川河口付近から船で積み出されました。伊万里から積み出されたため「伊万里焼」と呼ばれるようになりました。

伊万里焼は寛永年間(1624~1643)に、まず関西方面へ広まりました。
次に寛文年間(1661~1671)ごろに伊万里津に来ていた商人によって江戸や関東方面へも広がりました。
国内への流通が盛んになると、伊万里焼は日本国中で使われるようになりました。
武士や公家など一部のお金持ちの人々だけでなく、大部分の人々に磁器の器が広まったことは、日々の暮らしにうるおいと豊かさを感じさせました。
今でも東北や北海道などに、江戸時代に焼かれた伊万里焼の茶碗や皿が数多く残っています。
また、伊万里焼は海外へも輸出されました。
まず、ヨーロッパへは伊万里津から長崎の出島へ向かい、そこのオランダ商館を通じて輸出されたといわれています。以前は、中国の磁器がヨーロッパや東南アジアへ輸出されていました。ところが、350年ほど前に中国の国内が乱れて焼き物作りが十分にできなくなったのです。
そこで中国の磁器に代わって、伊万里焼が盛んに輸出されるようになりました。
当時のヨーロッパでは神秘的な東洋への憧れがあり、部屋を東洋の焼き物で飾ることが王族や貴族などに流行していたようです。

現在では、当時の伊万里焼と現代の伊万里市内で焼かれている伊万里焼を区別するため、江戸時代に焼かれたものは「古伊万里」と呼ばれ、かつて藩の献上品のうつわを焼くための窯である御用窯があった伊万里市の大川内山で作られるものを伊万里焼といいます。

伊万里は歴史ある秘窯の里です。呉須の藍色で描く鍋島染付け、白磁の肌に染付と赤・緑・黄の3色による上絵付けをする色鍋島、青磁原石を砕き釉薬にした鍋島青磁。3タイプの伊万里焼はいずれも繊細で気品に満ちた色紋様が特徴です。

出典 陶器の歴史公式サイト

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佐賀県の焼き物、唐津焼

coconoki.itoshima
雅樂窯
@masaakiito_utagama
粉引の一輪挿。

雅樂窯の粉引は、
いつも痺れるかっこよさ。
土の鉄分が反応して
黒い斑点が出ています。

雅樂窯さんといえば、
黒金彩が一番人気ですが
粉引、好きです。

#雅樂窯#唐津焼#伝統工芸
#粉引#一輪挿し#花器#雑貨#糸島#gift#flowervase#traditional#pottery

出典 Instagram

bizen_gallery_aoyama
Chosen Karatsu Tokkuri
Size(cm)W9.8H13.1
Okamoto Sakurei

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唐津焼の歴史と特徴

朝鮮唐津、絵唐津、三島唐津、斑唐津、黒唐津、粉引唐津など唐津焼の種類は多彩です。どの焼き物も渋い色合いの釉薬を施し、使い込むほどに独特の深い味わいが出てきます。昔から茶器類の焼き物で有名ですが、皿や湯飲みなども優れた作品を生み出しています。

桃山時代から遡り、古い歴史を誇る伝統工芸「唐津焼」。諸説ありますが、近年の研究によると、1580年代頃、岸岳城城主波多氏の領地で焼かれたのが始まりとされています。その後、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、朝鮮陶工を連れて帰り、その技術を取り入れたことで唐津焼は生産量を増していきます。

唐津港から積み出される唐津焼は京都・大阪をはじめとする西日本に広がり、焼き物のことを総称して「からつもの」と呼ぶほどに。また、茶道の世界では古くから「一井戸二楽三唐津」と言われるように、茶人たちから愛される茶陶としてその地位を確立していました。

江戸時代は藩の御用窯として伝統を守った唐津焼ですが、明治以降その庇護を失うことで衰退の一途をたどります。しかし、人間国宝・中里無庵(1895~1985年)が長い間忘れ去られていた桃山~江戸時代初期の古唐津の技法を復活させたことで再び息を吹き返し、作り手の数も増加。現代的な感覚を取り入れた作家も現れ、今では市内約70の窯元が点在しています。

唐津焼は”土もの”と呼ばれる陶器です。ざっくりとした粗い土を使った器は素朴かつ力強い印象を与え、今も昔も人々をひきつけてやみません。茶陶として発展した唐津焼ですが、生活の道具としてさまざまなうつわが存在します。また、唐津焼の大きな魅力は「用の美」を備えること。「作り手8分、使い手2分」と言われ、料理を盛る、茶を入れるなど使ってこそ作品が完成します。近年では、酒器(ぐい呑み)としても人気です。

出典 唐津観光協会公式サイト

唐津焼

唐津焼プロモーション動画(日本語字幕)【約11分】

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長崎県の焼き物 波佐見焼

 

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hasamilife
わかたけは、職人が一つ一つ判子で模様を施しています。
昔ながらの柄ですが、和食だけではなく、いろいろな料理に合わせられます!

▼今日のうつわ
西花 / わかたけ そば猪口 / 磁器

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#nagasaki

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utsuwayaurano
今日は波佐見焼 洸琳窯の大鉢をご紹介します。

磁器の発色の良い黄色に白い花模様がポイントになっています。

モダンなねじりもうつわの魅力を引き立てています。

21cmあるので存在感も充分あります。

明るく個性的な器をお探しの方におすすめです。

#波佐見焼 #洸琳窯 #黄色 #大鉢 #磁器 #うつわ #器 #おうちごはん #おうちじかん #和食器 #hasamiyaki #yellow #utsuwa #porcelain #japanesetableware

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波佐見焼の歴史と特徴

黎明期

波佐見焼の始まりは1590年代頃、下稗木場窯(全長約22m部屋数約12室)で焼かれた陶器の碗皿や甕などの日用品であったと考えられます。粘土を原料とする陶器は焼成温度が1,000℃ほどで、唐津の岸岳窯の職人が関わっていたという説もあります。
その後、文禄・慶長の役の折に連れ帰った朝鮮人陶工たちが関わったとされる村木の畑ノ原、古皿屋(ふるさらや)、山似田(やまにた)の窯で、1610~1620年代頃、波佐見で初めての磁器焼成に成功したため、当時の陶工は本格的に磁器の生産を始めるべく地元で陶石の鉱脈を探し回っていたと思われます。

青磁の時代

磁器の原料となる陶石が三股の山中で発見されたことから、17世紀初めごろより波佐見で本格的な磁器窯が築かれ、特に陰刻を施した青磁の皿や白磁の貼花を飾った器など高度な技法が駆使された三股窯の製品は主に贈答用として使われ、富裕層の屋敷跡から多く出土しています。
その後、17世紀中頃中国で起こった内乱により「海禁令」が出され、陶磁器の輸出ができなくなると、多くの国から代わりの陶磁器産地を求めるようになり、日本の製品ににわかに注目が集まるようになります。そのため波佐見では海外(主に東南アジア方面)向けの製品を大量に生産するようになり、1666年には皿山役所が設置されました。

くらわんかの時代

1680年代頃、中国の内乱が終息し、中国磁器の輸出が再開されると、海外の売り先を失った波佐見の陶磁器は国内向けに切り替えざるを得なくなります。そこで考案されたのが、安価で扱いやすく親しみやすい日用食器です。世界にも類を見ない巨大な窯を使い、積み方の工夫でさらに量産を可能にし、絵付けも早く描けるよう割筆を使ったり、コンニャク印判と呼ばれるハンコを使ったりと工夫を重ねました。
安くて丈夫で使いやすい器はたちまち大人気となり、江戸庶民の食文化に大きな変革をもたらしました。特に大量消費地である大阪で「くらわんか碗・くらわんか皿」と呼ばれたことからこの名が一般的になりましたが、当時の波佐見の人々は果たしてそのことを知っていたでしょうか?
海外に醤油や酒を輸出するための器である「コンプラ瓶」は江戸末期から大正時代まで波佐見で生産されていました。

高度成長期の波佐見焼

明治以降、藩からの支援がなくなると、陶磁器の生産は個人や会社組織へと変わり、成形には鋳込みや機械ロクロが使われ、絵付けには銅板転写やカッパ刷り、窯の燃料も石炭や重油へと大きく変わっていきます。やがて昭和になると第二次世界大戦でほかの産業と同様に大きなダメージを受けた波佐見焼でしたが、その後も廃れることなく続き、昭和30年代から50年代の高度成長期には、全国的な流通改革などもあって飛躍的な発展を遂げます。
絵柄や形状などにこだわりのない波佐見焼は、人々の生活様式の変化や流行、時代の雰囲気などに合わせて自在にデザインを変化させ、人々の求めるモノが何なのかを常に模索してきたのです。昭和53年(1978)波佐見焼は「伝統工芸品」の指定を受けました。

波佐見焼の今と未来

古くから分業制で効率よく製品を作ってきた波佐見焼は、使い心地の良さや料理が映えるという使い手の視点が重視され、形状も絵柄も自由にデザインされていることから、多くの人々に共感を得られているのではないでしょうか。あたたかみのある民芸風の陶器から北欧風の磁器、親しみやすい絵柄からシャープで都会的な形状の器まで、波佐見で作られたものはどれも波佐見焼、こんな自由さが波佐見焼の魅力です。

出典 波佐見町歴史文化交流館公式サイト

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鹿児島県の焼き物 薩摩焼

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歴史を物語る黒薩摩
苗代川(美山の旧地名)で造られた仏花器です。

「黒薩摩花入 捌(はち)」

京都茶道が南海の黒潮に洗われ、独自の世界を造りあげました。
主張しすぎないフォルムは、野の花を挿すと一層引き立ちます。

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出典 Instagram

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『黒茶家(クロヂョカ)』
年始から焼成へ、続々と焼き上げます。

焼酎を温める土瓶、黒茶家。
薩摩古老の知恵をかりながら つくりあげられたもので
遠赤外線の波動により、焼酎の味をまろやかに
晩酌の場をより楽しく、より美味しくするアイテムです。

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出典 Instagram

薩摩焼の歴史と特徴

薩摩焼きの歴史は戦国時代の1529~1598年(享禄2年~慶長3年)に行われた文禄・慶長の役から始まります。これは日本が朝鮮出兵をした戦争ですが、別目「焼き物戦争」と呼ばれ、薩摩藩藩主の島津義弘が朝鮮人の陶工師を80人連れ帰ったことで薩摩焼が誕生しました。
朝鮮人陶工師の朴平意(ぼくへいい)や金海(きんかい)らは、薩摩藩内に窯場を開きそれぞれの陶工のスタイルで、様々なスタイルの陶磁器の制作を行いました。これが流派や特徴に分かれ、現在の形に昇華した薩摩焼となります。
現在の薩摩焼は伝統を受け継ぎ、未だに朝鮮の風俗を受け継いでいます。沈壽官(ちんじゅかん)の窯は美山にある窯場で朝鮮の独特の風俗を受け継いだ色絵薩摩の里です。また、朴平意の末裔が引き継ぐ荒木陶窯は朝鮮ならではの左回しのろくろに拘り、独自の天然釉薬を利用し、祖先から引き継いだ伝統を守っています。
1867年(慶応3年)の江戸時代から明治時代への変遷期には薩摩藩がパリ万博へ薩摩焼を出品し、ヨーロッパの人々に感銘を与えて「SATSUMA」と呼ばれて親しまれました。2007年(平成19年)の平成時代にもフランス国立陶磁器美術館に於いて薩摩焼パリ伝統美展が開催されその名を馳せました。

薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県で生産される陶磁器です。白薩摩、黒薩摩、磁器の3種類から形成されます。薩摩焼の特徴は種類が多く、竪野系、龍門司系、苗代川系、西餅田系、平佐系、種子島系と呼ばれる6種類もの種類があることです。
白薩摩は白もんと呼ばれ、淡い黄色い焼き物に透明の釉薬(ゆうやく)を使い、表面にひびをあしらい、その上から装飾したもので、主に装飾品や置物等です。黒薩摩は黒もんと呼ばれ鉄分の多い陶土を利用しており、釉薬も色味のついたものを利用しています。黒もんは主に焼酎を飲むときに使われる器等です。薩摩焼には主原料を陶石とする磁器も存在しますが、現在は流派が途絶え作られてはいません。
薩摩焼の産地は主に鹿児島県鹿児島市、指宿市、日置市等になり、現在残っている窯場は、苗代川系、龍門司系、竪野系の3つの窯場です。苗代川系は当初は黒もんを中心に作成していましたが、現在では白もんを中心に制作している窯場となります。龍門司系は黒もん中心で酒器を作成している窯場で、竪野系は白もん中心で主に贈答用の茶器等を制作しています。

出典 KOGEI JAPAN 公式サイト

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沖縄県の焼き物 やちむん

 

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eeeemaco
沖縄産のもずくを買ってきてもずく天ぷらを作りました。沖縄の奥武島の大城天ぷら店のもずく天ぷらがすごーくおいしかったんです。それに、沖縄のアンテナショップ、有楽町のわしたショップのもなかなかおいしかった😋うまく揚げるコツ知りたいな❤️
久しぶりにエビチリも作ってみた。ひとりだから明日も同じのを食べるようだな😅娘が「お母さん、期限切れはだめだよ❗」っていつも注意されるけど、まぁ食べて変だったらわかるし(笑)お腹壊さないように気を付けよう(笑)

#やちむん#新しいのはいいな#もずく天ぷら#陶房眞喜屋#マチヒコ#菅原工房#ギャルリ雪月花#松田共司工房#與那原正守#横田屋窯#玉城焼#深貝工房

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eeeemaco
やちむんが好きすぎる❣️❣️❣️

#やちむん#やちむん病#沖縄ロス#陶房眞喜屋#エドメ陶房#玉城焼#松田米司工房#與那原正守#横田屋窯#りこ出張所#portrivermarket#JOZOCAFE

出典 Instagram

沖縄では焼き物のことを「やちむん」と言います。沖縄の水、粘土、薪を使って焼かれた焼き物。自然の恩恵を受けて生み出されるアイテムは、大らかで温かく素敵です。中でも私たちがよく目にするのが「シーサー」、台風などの多い沖縄では、昔から魔除けや守り神としてシーサー(獅子様)を屋根の上や門柱の上に置きました。現在では魔除けや飾り物、またお土産として沖縄を代表する焼き物です。

やちむんの歴史と特徴

「やちむん」とは、沖縄の言葉で焼物のこと。ぽってりと厚い形状に力強い絵付けがなされた器や壺は、沖縄の人々の暮らしに深く根付いています。最近では土産物としても人気が高く、県内で定期的に行われる陶器市には地元客だけでなく観光客も多く訪れます。

その歴史は古く、沖縄の焼物の始まりはおよそ6600年前に作られた土器といわれます。中世に入ると、徳之島で焼かれたカムィ焼と呼ばれる灰黒色の焼物や中国産陶磁器が沖縄へ入ってきます。さらに15世紀には朝鮮、タイ、ベトナム、日本から陶磁器を輸入するようになり、古くは城の瓦などを主体に作られていたとされる沖縄の焼物も、こうした海上貿易などの影響を受けることで、焼物としての質が高まり技術の向上につながっていったといわれています。

1616年には、薩摩から招いた朝鮮人陶工である一六、一官、三官が湧田窯(現在の那覇市泉崎)で朝鮮式技法の指導にあたり、現在のやちむんの基礎を築きました。さらに1682年には王府が工芸産業振興制作の一環として、県内に分散していた知花、宝口、湧田といった複数の窯場を那覇市壺屋に統合。これが壺屋焼の始まりとなります。当時焼物は王府への献上品としても利用され、功績を残した陶工を士族に列するなど、王府は焼物作りの発展に積極的でした。

ところが明治時代に入ると、琉球王朝は幕を閉じ、焼物に対する王府の庇護もなくなり自由競争へ突入。本土から安価で丈夫な磁器製品が大量に流入するようになり、壺屋焼は危機を迎えます。しかし、日用工芸品の美を発掘する民藝運動を率いた柳宗悦をはじめ、濱田庄司、河井寛次郎などの陶芸作家が高く評価し本土に紹介したことで、多くの人々に認められることとなりました。

そうした中で、後に人間国宝となる金城次郎など優秀な陶工が育っていきます。戦後に入ると、生活必需品である食器や壺などが不足したため、各地に散っていた陶工たちが壺屋に集められ、ここから那覇の復興が始まっていきました。しかし、周辺地域の都市化が進むにつれ、登り窯から出る煙が公害として問題視されるようになり、ガス窯に切り替える陶工のほか、昔ながらの製法にこだわり新たな窯場として読谷村に移る人も現れました。1972年に移窯した金城次郎もその一人です。現在は壺屋、読谷村を筆頭に、県内各地で様々なやちむんが作られています。

壺屋焼の種類と窯の変化

壺屋焼のタイプは大きく分けて、荒焼と上焼に分類されます。

荒焼(あらやち)

釉薬をかけずに約1120度で焼き上げた焼物を荒焼といいます。装飾はほとんど施されず陶土の風合いをそのまま活かしており、その名の通り見た目の荒さが特徴。南蛮焼ともいわれ、酒甕や水甕、壺など大型の容器を中心に作られています。

上焼(じょうやち)

赤土の上に白土で化粧がけをしたり、釉薬をかけた焼物を上焼といいます。約1200度で焼き上げます。釉薬には水漏れを防いだり汚れをつきにくくする効果もあるため、上焼は食器や酒器、花器など日用品が多く、壺屋焼の主流を占めています。透明釉や呉須など様々な色に発色する釉薬があり、焼き方によって色が変化するのも面白さの一つです。

出典 Okinawa Convention & Visitors Bureau公式サイト

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焼き物のこと、もっと知りたい!

やきものの素材

陶器

吸水性のある粘土質の素土に釉薬を施し、磁器よりも低い1100~1200度で焼かれたものです。不透光性で、貫入などの手づくりの良さが出やすく、ぬくもりのある器。素焼きした後、下絵付け、施釉、本焼きで完成します。益子、有馬、笠間、織部、志野、薩摩、唐津、萩焼など、全国のいたるところで焼かれ、それぞれに特徴ある手法で作られています。扱いにはとくに神経質になる必要はありませんが、やわらかい質の器は、洗った後で陰干ししたほうがいいでしょう。磁器に比べ厚みがあり、温かみのある素朴な風合いがあります。

磁器

土ものと呼ばれる陶器や土器に対して、こちらは石ものと言われます。原料は、石の粉に粘土や石英などを混ぜた陶石。素土が白く、吸水性がなく、光にかざすと透けるやきもので、1300度前後の高温で焼くため、高度の技術を要するやきものです。また、端正な形に色絵が施され、製作には最も手数がかかります。吸水性がない上釉薬をかけているので、永く使っても汚れや臭いがつきにくく、薄手ですが、陶器より硬くて耐久性もあるため、日常の器として最適です。有田焼、伊万里焼、九谷焼、信楽焼、清水焼、瀬戸焼、美濃焼、砥部焼などがあります。

炻器

吸水性のない素土に釉薬のかかっていない(ごくまれにかける場合もある)、焼きしめと呼ばれるやきものです。炻器の『炻』とは、実際には漢字辞典になかった文字で、明治40年頃の造語、ストーンウェアという英語の当て字。石のように硬いやきもの、という意味です。アルカリや鉄などの高温で、長時間かけて焼かれます。吸水性がない素土ということが陶器と異なります。備前焼、常滑焼、信楽焼、萬古焼、伊賀焼などがあり、その地方ならではの土の持ち味をいかし、独自の焼き方を開発しています。

土器

粘土を原料として、無釉、素焼きで700~800度の低温で焼成されたものです。もろくて水漏れするため食器に向きませんが、植木鉢や焙烙として使われています。最も原始的なやきもので、歴史が古く、日本でも1万年以上前の縄文土器が始まりと言われ、4つのやきものの中では、一番単純な製作過程で作られています。それまで、貝殻や竹筒などの自然の器を利用していた人間たち。粘土を使って、人工の器を形作って焼くということは、人類が科学に目覚めた第一歩と言えるかもしれません。こうして土器は、煮炊き用品からいろいろな用途を持つものへと急速に展開していきます。

やきものの扱い方

新しい器を使うとき

糸底の処理

器の高台(糸底)は、ふつう釉薬がかかっていないため、台や膳を傷つけてしまう恐れがあります。多くは処理をしてから販売されていますが、処理をしていない場合には、紙やすりで高台を削り、滑らかにしてから使用しましょう。最初は粗い紙やすりを使い、細かい目のものでていねいに仕上げましょう。

陶器は使い始めに番茶で煮る

陶器は使い始めるときに、番茶で煮ると丈夫になるといわれます。鍋にいっぱいの水を満たし、ほうじた番茶を入れ、陶器を沈めます。一時間ほどことこと煮て、そのまま冷ましてから洗います。備前や信楽などの陶器は締まって丈夫になりますが、楽の場合だけは柔らかくなり痛むので気をつけましょう。

使い終わったら

洗い方

なるべく洗剤は使わずお湯でていねいに洗うことがのぞましいのですが、脂っこい料理などでは中性洗剤を薄めて、柔らかい布巾かスポンジでさっと洗い、よくゆすぎましょう。クレンザーは器を傷つけるので使わないこと。手垢のつきやすい外側や糸底までていねいに洗い、つねに清潔をこころがけましょう。

盛り付け前の工夫

盛り付ける前に水を張る

冷たい料理を盛り付けるときは、三十分ぐらい前から器に氷水を張っておきます。冷たい料理を冷たいままで出すこと以上に、料理の匂いが器に移らないためのこころづかいです。乾いた器に魚の切り身などを置くと生臭さが落ちませんが、こうしておくと水がガードしてくれます。

温かい料理を盛るときは、五十度ぐらいのお湯を張って、器をあたためながら水をしみこませておきましょう。陶器や貫入の入ったものなどはとくに注意が必要です。

収納の方法

重ねて収納するとき

青磁や白磁などの傷がつきやすい器や絵付けされている器などを収納するときは、さらしなどを小さく切った小布かやわらかい紙を器の間に挟んで重ねます。あまりたくさん重ねずに、五客ほどにします。

焼き物用語

赤絵 [あかえ]
赤色を主調とした多彩の絵模様陶器。本焼きした陶器の釉の上に、赤・緑・黄・紫・青などの上絵具で文様を描き、専用の上絵窯で焼きつける。上絵、または色絵ともいう。

一閑人 [いっかんじん]
皿・鉢・盃などの口造りの一端に人形がついている物。閑人(かんじん)が井戸を覗いているようなのでこの名がある。中国明時代(1368~1644年)の青磁や染付磁器によくみられる装飾で、両側に人形があるものは二閑人という。

糸切り [いときり]
回転する轆轤(ろくろ)から器物を切り離すとき、撚糸(ねんし)で引き切る事。またはそのようにして切り取った高台部の事。底部が糸の回転によって渦巻き文となる。

糸底 [いとぞこ]
轆轤(ろくろ)成形の際、糸で底を切り離した焼き物の底の事。本来は糸切りした底を指す名称だったが、糸切りの痕の見えないもの、さらに焼き物の底全てを指すようになった。糸尻ともいう。

伊羅保 [いらほ]
朝鮮半島で作られた高麗茶碗の一種。鉄分の小砂まじりの荒い土に薄い釉薬がかかり、肌が焦げてイライラ、イボイボした感じがするのでこの名が起こったといわれる。江戸時代(1603~1867年)初期に我が国の注文に応じて作られた所謂御本茶碗が多い。

御庭焼 [おにわやき]
江戸時代、諸藩主の中には、御用窯をつくって焼成させる例が多かったが、とくに城内や邸内に築用し、より好事的になったものを”御庭焼”と称する。有名なものに、紀州偕楽園焼、尾張御深井焼、水戸後楽園焼、備前後楽園焼などがある。

掛け分け [かけわけ]
2種類以上の色釉を分けて掛け流す施釉(せゆう)方法。

重ね焼 [かさねやき]
器物をいくつも重ねて焼成すること。その際、器物の溶着を防ぐために目砂や貝をはさむ。それが目跡となって器に残る。

片口 [かたくち]
台所用具の調理用具の一種で、鉢の一方に注ぎ口がついている物。油・酒・醤油などを口の小さな容器に移し替える時に用いられる。塗りものや焼き物で作られ、向付や鉢として使われることも多い。

兜鉢・甲鉢 [かぶとばち]
兜の鉢(頭を入れる部分)に似た形をした鉢。反りをもった大きな縁があり、伏せると兜の形に似ているのでこの名がある。

皮鯨 [かわくじら]
茶碗や皿の縁に鉄釉を掛けて焼くと、茶褐色に焼き上がる。その色が鯨の皮身に似ているところからつけられた名称。唐津にその遺品が多い。

貫入 [かんにゅう]
釉面にあらわれたヒビの事。素地(きじ)と釉薬の収縮率の違いから生じる。ヒビが大きいものを氷裂(ひょうれつ)文、細かいヒビがたくさん集まっているものを魚子(ぎょし)文という。貫入は欠点とされることもあるが、意図的に文様化したものもある。

砧青磁 [きぬたいせいじ]
我が国の茶人による中国青磁三分類の一つ。中国南宋時代(1127~1279年)に龍泉窯で焼かれた粉青色の青磁で、最も上手の美しい青磁として珍重された。

切高台 [きりこうだい]
高台の一部が1~数ヶ所切り込まれているものをいう。背の高い高台に見うけられ、江戸時代(1603~1867年)中期以降の萩茶碗や高麗茶碗などの一部にこの手法がある。

金彩 [きんさい]
金で上絵付けをした焼き物。金と他の合金を混ぜたもので彩画し、通常の上絵付けよりもさらに低い温度で焼き付ける。

錦彩 [きんさい]
赤・緑・紫・黄・藍などの色絵の上にさらに金彩を彩色したもの。

金つぎ [きんつぎ]
破損した陶磁器を漆を使ってつくろい、その表面を金で覆うこと。一見すると金でついだように見える。

釣(均)窯 [きんよう]
中国宋時代(960~1279年)の河南省の名窯の一つ。青磁釉が白濁した、ラベンダー彩が特徴。

沓型 [くつがた]
口縁部に不規則な狭まりがあるもの。茶碗や鉢によく見られ、口縁部の下に一段くびれがあるのが普通である。蹴鞠に用いられる沓に似ているところからつけられた名称。

くらわんか茶碗 [くわらんかぢゃわん]
江戸時代(1603~1867年)中期以降、淀川を往来する船客に酒食を売った「くらわんか船」の商人たちが用いた厚手の染付茶碗。ほとんどが末期伊万里染付の下手(げて)な作品だった。船の揺れで倒れないように高台が重い。

建水 [けんすい]
茶湯点前の時、茶碗をすすいだ湯や水を捨てる器のこと。水こぼしともいう。

香合 [こうごう]
香料を入れる蓋ときの器のこと。茶事では炉の炭手前に使用される。漆器、陶磁器など色々ある。珍味入れの容器などに転用されたりもする。

高台 [こうだい]
茶碗、鉢、椀などの足の部分にあたる基台のこと。輪高台、切高台など様々ある。糸底、糸尻ともいい、光台、香台とも書く。

高麗青磁 [こうらいせいじ]
朝鮮の高麗時代に焼かれ、高麗朝滅亡とともに衰退した優れて美しい青磁。中国の宋の政治の影響のもとに発展したが、朝鮮独特の味わいの深いものとなっている。青磁釉の下に白土や黒い土を象嵌して焼いた”象嵌青磁”、また、酸化銅を配し辰砂の紅を発色させたもの、釉下に鉄で絵を描いた”鉄絵青磁”などがある。

香炉 [こうろ]
中に灰を入れて香をたくのに用いる容器。中国、朝鮮、日本で多く作られ、陶製、銅製などの色々な形がある。元来は仏具だったが茶道や香道などで用いられる。

五彩 [ごさい]
中国明代(1368~1644年)に完成した上絵付けのこと。日本では赤絵または色絵という。

呉須 [ごす]
酸化コバルトを含んだ鉱物の名で、染付の顔料。中国では青花とか青華ともいう。呉州とも書き、広い意味で顔料や絵具全般を指すこともある。さらに呉須手とよばれる粗雑な染付磁器を指すこともある。

コバルト [こばると]
青めの着色剤として広く用いられる。染め付けなどに用いる呉須は、天然コバルトのことである。コバルトの八食の優劣により、作品の良し悪しが決まるので、様々にコバルトの種類を選び、混ぜものなどをして研究している。

御本手 [ごほんで]
桃山時代から江戸時代(1573~1867年)にかけて、我が国から朝鮮に御本手を示して釜山(ぷさん)あたりで作られた茶碗のこと。御本ともいう。これらの茶碗には、胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、この斑点を御本と呼ぶこともある。

錆絵 [さびえ]
鉄絵のこと。京焼でいう。鉄釉で下絵付けしたもので、黒ないし褐色に発色する。

三彩 [さんさい]
素地(きじ)に直接、緑・茶・白・藍などの低火度釉をかけて焼いた軟陶。必ずしも3色とは限らず、2~4色のものが多い。中国では唐三彩、二本では奈良三彩が有名である。五彩と違い赤の絵具や青の下絵はない。

喰籠 [じきろう]
食物を盛って出す、大ぶりで平たい蓋つきの器物。円形や角形のものがあり、重層になっているものもある。売るしや竹製品にも見られるが伊万里焼など陶磁器にも多い。

しのぎ [しのぎ]
素地(きじ)の装飾技法の一つ。口作りから胴。腰にいたるまでを、ヘラで縦にえぐるように削ったもの。境目の稜線を際立たせ、これを文様とする。

青白磁 [せいはくじ]
白磁土の上に、青磁と同じように、少量の鉄分を含む灰釉を掛けて青く発色させたもの。白磁の一種。影青(いんちん)ともいう。

瀬戸黒 [せとぐろ]
瀬戸黒茶碗のこと。鉄釉を掛けた茶碗を焼成中の窯から引き出して、急冷させることによって黒色にすること。引出窯(ひきだしぐろ)ともいう。

濃み・ダミ [だみ]
染付彩色の技法の一つ。輪郭で線描きしたあと、太い筆でその内側に呉須をむらなく塗ること。

貼花 [ちょうか]
貼付文様のこと。胎土と同じ土で草花などの文様を作り、これを貼りつけてから釉を掛けて文様としたもの。「てんか」は慣用読み。

手鉢 [てばち]
丈夫に弧状の取手がついている鉢。焼き物などの料理を盛る他、菓子器として用いられる。万一の破損を考えての心がけとして、通常は手を持たないことになっている。

天龍寺青磁 [てんりゅじせいじ]
中国元時代(1271~1368年)から明時代(1368~1644年)初期にかけて龍泉窯で作られた青磁。濃い黄緑色で、大型の花瓶や皿が多い。

豆(闘)彩 [とうさい]
染付で骨描したあと、赤・緑・黄・紫などを彩色したもの。中国明成化時代(1465~87年)に創立され、清の雍正時代(1722~36年)に闘彩の名に相応しい色彩美を展開した。

飛青磁 [とびせいじ]
鉄釉による斑文がところどころにある青磁。中国の元~明時代(1171~1644年)にかけて龍泉窯で焼かれた。

銅鑼(羅)鉢・鉦鉢 [どらばち]
縁が切り立った平鉢で銅鑼のような形をしている。黄瀬戸の銅鑼鉢がよく知られている。

トルコ青 [とるこあお]
トルコ玉のような美しい青色を出す釉で、トルコ青釉、トルコ玉釉ともいう。エジプト、ペルシアの陶器に古くから盛んに盛いられた。

生掛け [なまがけ]
素焼きする前の素地(きじ)に釉薬を掛けて本焼きすること。通常は素焼き後に釉薬を掛ける。

濁し手 [にごしで]
柿右衛門の磁器に見られる米のとぎ汁のような乳白色の素地(きじ)のこと。普通の磁質には青みがある。

二重高台 [にじゅうこうだい]
高台の畳付の部分に一本の溝が彫ってあり、高台の内側にもう一つ高台があるかのように見えるもの。

灰被 [はいかつぎ・はいかむり]
窯変した天目茶碗の一種で、灰を被ったような鼠色に変色したもののこと。灰被天目ともいう。

馬上盃 [ばじょうはい]
脚部を手で握れるほどに高くした盃のことで、小向に使われることもある。馬上盞(さん)ともいう。この名の由来は、馬に乗ったまま酒を飲むのに適しているからとも、腰が高くて馬上にいるようだからともいわれる。

万暦赤絵 [ばんれきあかえ]
中国明(1368~1644年)末期の万暦窯で作られた華麗な五彩のこと。濃密な青花と五彩によってぎっしりと文様が描き込まれている。

緋(火)色 [ひいろ]
素地(きじ)中の鉄分が酸化して、ほの赤く発色してできた斑文。偶然にできるものと人工的につくられるものがある。

火(緋)襷 [ひだすき]
無釉の陶器の焼成中に、藁灰(わらばい)が掛かったところが赤褐色に窯変したもの。近年は藁を巻きつけるなどして、人工的に作られることも多く、備前焼によく見られる。

ピンホール [ぴんほーる]
釉の表面に小さな孔が針の先でつついたように出来たもの。釉中の成分が焼成中にガス化し、これが出た跡。また、器面に埃が付着したままの状態で施釉したときにも出る。このほか、色々な原因が考えられる。

袋物 [ふくろもの]
壷などの、袋状になって、内部に空間のある形をもった焼き物を指す。

フリット [ふりっと]
1200度以下の低温で焼くために、釉薬中に混入する釉材料。「白玉」ともいい、鉛白玉、無鉛白玉とがある。

伏せ焼き [ふせやき]
焼き物の口辺りを下にして焼くこと。器物の内面の汚れを防ぎ、歪みが少ない。

弁柄 [べんがら]
「紅柄(べにがら)」とも呼ぶ。酸化鉄の絵具。下絵付、上絵付に用いる。還元焼きで茶色から赤っぽい色に発色し、酸化焼成では黒くなる。インドのベンガルから転じた言葉。

窓絵 [まどえ]
焼き物の一部を釉で窓のように区切り、その中に山水、花鳥などの絵を描くこと。窓の形は丸、菱形、扇形などいろいろある。

見込み [みこみ]
茶碗や鉢の内側のこと。内側全体を指す場合と内側の正面または中央の底面を指す場合がある。見込みの作風は鑑賞の上で重要となる。

三島 [みしま]
象嵌(ぞうがん)の一種で、白釉で細かい文様がある焼き物。朝鮮李朝時代前期に焼成された。名称の由来は、静岡県三島神社から発行されていた暦の仮名文字に似ているところから付けられたとされているが、「三島」が朝鮮を指す言葉だという説もある。

水指 [みずさし]
茶具の一つで、席中に置き、窯に補給する水や茶碗をすすぐ水を入れておく容器。木製や金属製のものもあるが陶磁器が一般的である。同じ材料で作られた蓋(共蓋)がない場合は黒売るし塗りの蓋を使う。

麦藁手 [むぎわらで]
茶碗などの文様で、縦に細い線を何本も引いたもの。麦藁を連想させることからこの名がある。似たものに木賊(とくさ)文、千筋(せんすじ)がある。

虫食(喰)い [むしくい]
器の口辺部の釉薬が胎土に融着しないで、部分的に剥がれ落ちて素地(きじ)土が見えるもの。古染付などにみられる。

銘印 [めいいん]
器物につけられた作者または窯の印。印を押しつけるかわりに、ヘラなどで彫った銘や染付・色釉で書いた銘もある。

面取 [めんとり]
丸く成形した器の曲面をヘラなどで削り取り、多面体にすること。または直角の角を斜めに軽く削り取ること。

木瓜形 [もっこうがた]
器の形の一つ。紋所の木瓜のように楕円の四隅が内側に窪んでいる形。あこだ形、四方入隅(角)形ともいう。

焼締 [やきしめ]
信楽や備前など、釉薬を掛けずに、陶土をただ焼いただけのものをいう。高火度で長時間焼くため、土中の鉄分が赤く発色することが多い。

釉裏金彩 [ゆうりきんさい]
普通の金彩が釉の上に金を貼りつけるのに対して、金粉や金箔の上に透明な低火度釉を掛けて焼きつけたもの。絵の調子が柔らかく見え、また、金が剥がれにくい。

釉薬 [ゆうやく]
釉(うわぐすり)と同じ。

油滴天目 [ゆてきてんもく]
天目茶碗の一種。黒い釉面に金色や銀色の細かい斑点が出て、ちょうど水に浮く油滴のように見えるもの。

窯変 [ようへん]
窯の中で変化が起こり、形や色調に予期しない表情や色が出ること。技術・研究の進歩に伴い、現在では意識的に作れるようになった。

曜変天目 [ようへんてんもく]
天目茶碗の一種。黒釉の地に、銀白色で周囲に青みを含んで輝く丸い大小の斑点が、群をなして浮かび上がり、さらにその周辺に虹色の光彩が妖しく取り巻く。原因は不明で、世界中で日本に四点伝世するのみである。

四方 [よほう]
四角の器。

ラスター彩 [らすたーさい]
白地の上に、金・銀・銅を発色剤とする顔料で文様を描いたもの。光の具合によって黄金を含んだ虹色に輝く。イスラムの代表的な装飾技法。ラスターとはきらめきのこと。

輪花 [りんか]
皿や鉢などの縁に規則的な切り込みや凹凸があり、口造り全体が花形になっているもの。

瑠璃釉 [るりゆう]
酸化コバルトを着色剤とした青色の釉薬。器物全体に掛けた場合にこういう。主として磁器に用いられる。

蝋抜き [ろうぬき]
乾いた素地(きじ)に溶けた蝋で文様を描き、そのあと全面に釉を掛けたもの。蝋の部分だけ釉をはじいて抜文となる。

六古窯 [ろくこよう]
鎌倉時代以前より継続している古い窯を古窯の代表的なものとするが、その中でも後世大きな産地となった瀬戸・常滑・越後・丹波・備前・信楽の六つの窯を指す慣用語。

割山椒 [わりざんしょう]
山椒の実が熟して割れ開いたような小鉢のこと。独特の形状のおもしろさから秋の向付としてよく用いられ、三方の割れが深いものほど喜ばれる。

出典 「陶器の日」事業4団体協議会公式サイト